ウェブイミダスで公開してきたこの対談連載は、21年秋に『いのちの政治学 リーダーは「コトバ」をもっている』(集英社クリエイティブ刊)として単行本、電子書籍として刊行されました。刊行を記念してジュンク堂書店池袋本店オンラインイベントを開催(21年11月30日)。書籍上梓後に改めて語り合った中島さん、若松さんのお話の一部を採録します。
中島 今回の本、『いのちの政治学』のもとになった対談をウェブイミダスで始めたのは2020年の春でした。新型コロナの感染が拡大し始めた時期で、大学などでも新学期を予定どおり始められるのかどうかが問題になっていましたね。そこから約1年半をかけて、聖武天皇、空海、ガンディー、教皇フランチェスコ、そして大平正芳という5人の人物の生涯をたどりながら、現在を考えるための視座を得ていこうと対話を重ねた、その記録がこの本ということになります。
対話を始めた一つのきっかけは、本のサブタイトルにもある「コトバ」でした。ここでは、言語によって伝えられる一般的な「言葉」とは別に、その人の態度、あるいは存在そのものから言葉の意味を超えて伝わってくるようなものを指して呼んでいます。
コロナの問題が始まった当初から、私と若松さんはわが国の政治家をはじめ、さまざまな分野における「リーダー」たちの言葉のあまりの貧弱さ、そして「人々とつながろう」という意識のなさに苛立ちを感じていました。一方で、たとえばドイツのメルケル首相のように、世界にはまったく異なる言葉──コトバを発している人もいるということも目の当たりにしていたのです。
メルケルは国民に向かって、コロナ禍において互いを守り、力を与え合うために「結束した対応をとろう」と呼びかけました。そして「誰も孤立させないこと、励ましと希望を必要とする人のケアを行っていくことも重要になります」と語るとともに、「感謝される機会が日ごろあまりにも少ない方々にも、謝意を述べたい」として、スーパーのレジ係や商品補充係をしている人々への感謝を述べたのです。
このメルケルのコトバと、当時の安倍首相の言葉──彼は記者会見においてさえ、質問にまともに答えようとしていませんでした──との落差に愕然としたというところから、私たちの対話が始まったといえます。
若松 コロナ危機が始まって、私たちは経済的にも精神的にも、さまざまな意味で本当に困窮していました。そのときに、メルケルが国民に対して示したのは、「労い(ねぎらい)と労り(いたわり)」でした。国民への行動制限などより先に、まず傷ついている人々を労う、その大切さを彼女は分かっていたのでしょう。今回の本で取り上げた5人も、労いと労りの重要性を決して忘れなかった人たちだと思います。
「労い」と「労り」はともに労働の「労」の文字です。働くということは、互いの「労いや労り」を必要とすることをこの言葉が示しているのだと思います。しかし、この国では、人々に対して労いや労りを示したリーダーが、どのくらいいたでしょうか。
大仏建立の詔
「盧舎那仏建立の詔」ともいう。天平15(743)年10月15日に発せられた(続日本紀 巻第十五)。
伊東正義
1913-94。昭和~平成にかけての自民党の政治家。農林省などの官僚をへて、1963年衆議院議員に。79年大平内閣の官房長官を務める。80年大平の急死のあと首相臨時代理に。鈴木善幸内閣の外務大臣。
二宮尊徳
1787-1856。江戸時代後期の農政家、思想家。通称・金次郎。
タゴール
1861-1941。インドの詩人。カルカッタ出身で、1877年イギリスに留学。帰国後詩作をかさね、農村改革運動や民族主義を高揚した。東洋人として最初のノーベル文学賞を 1913年に受賞。ガンディーらの独立運動に大きな影響を与えたといわれる。
中村哲
1946-2019。医師。国際NGOペシャワール会現地代表。84年にパキスタンのペシャワールの病院に赴任。アフガン難民の診療にかかわり、さらにアフガニスタン国内へ活動を広げる。灌漑・飲料水用の井戸掘削から大規模な水利事業を展開。2019年、アフガニスタンで銃撃され死去。
マイケル・オークショット
1901-1990。イギリスの政治学者、政治思想史家。 51年~69年ロンドン大学(ロンドン経済政治学校)政治学教授。 1966年,英国アカデミー会員。著作に『政治における合理主義』 などがある。
吉野作造
1878-1933。政治学者、思想家。民本主義をとなえ、普通選挙の実施や政党内閣制などを主張した。大正デモクラシーの理論的指導者。
西部邁
1939-2018。評論家。東京大学経済学部在学中に東大自治会委員長、全学連中央執行委員に。60年安保闘争で指導的な役割を果たす。86~88年に東京大学教養学部教授。保守派の評論家、思想家として活躍。著書に『経済倫理学序説』、『生まじめな戯れ』などがある。
内村鑑三
1861-1930。無教会派キリスト教指導者。評論家。足尾銅山鉱毒事件の実態を訴え、第一高等中学の教師のとき、教育勅語への敬礼を拒否して免職となる。日露戦争への非戦論を唱えた。著書に『代表的日本人』『基督信徒のなぐさめ』などがある。
大本教
1892年、明治末期におこった神道系宗教団体。出口なおを開祖とし、養子・出口王仁三郎(おにさぶろう)によって組織された。1935年に弾圧され、36年に解散。