2022年2月24日に始まったロシアのウクライナ侵攻により、私たちは日々、彼の地のニュースを目にするようになった。だが、現在進行中の「戦争」の背景には何度も国境線が変更されてきた両国の複雑な関係があり、それを理解するのは島国に暮らす日本人の感覚ではなかなか難しいところも多い。両国の歴史や文化をより深く知るには、緊迫の度合いを深める情勢を追うばかりではなく、たとえば身近な食文化について考えることも役立つだろう。その手がかりのひとつとなるのは、ロシア料理の代名詞として日本でも親しまれている真っ赤なスープ、「ボルシチ」だ。実際のところ、ボルシチはウクライナにルーツがある料理だが、「ロシア料理」として世界に普及している。なぜウクライナ発祥のスープがロシア料理とされるようになったのか、ウクライナのボルシチとロシアのボルシチは何が違うのかなど、ロシアや周辺国の食文化に詳しい沼野恭子・東京外国語大学大学院教授にうかがい、両国の歴史や文化について考えてみた。
――私たちはボルシチ=ロシア料理と思ってきましたが、実はウクライナが発祥の地だそうですね。
ロシア食文化研究家ポフリョプキンの『料理大百科事典』(邦訳なし、2003年)では、ボルシチはウクライナ料理に分類されており、多くのロシア人も「ボルシチの本家本元はウクライナ」と認めていると思います。ボルシチという料理がいつ生まれたか、明確なところはわかっていませんが、ボルシチという言葉はもともと、ハナウドの類の草を指すウクライナ語(ボルシュチウニーク)に由来することから、ウクライナが発祥の地だと言われています。やがて、ボルシチはポーランドやリトアニア、ベラルーシ、ロシアなどの周辺地域に広がっていき、これらの地域でもボルシチやそれに似た料理が食べられるようになりました。
ボルシチがいつ頃ロシアに広まったのかということについても正確なところはわからないのですが、16世紀に書かれた『ドモストロイ(家庭訓)』というロシア語の書物に載っていることから、少なくともそれ以前からロシアでも食されていたと思われ、今では、ロシアのいたるところで食べられている「国民的な」スープです。ロシアが大国となり世界に影響力を持つ過程で、ボルシチは「ロシア料理」というイメージを持たれるようになったと思われます。
ちなみに、ロシアの食事の中で、ボルシチに限らずさまざまな種類の具だくさんのスープは前菜に続けて供される「第一の料理」と呼ばれ、メイン・ディッシュ以上に重要な位置を占めています。特に「シチー」あるいは「シー」と呼ばれるキャベツのスープは、ロシアでは古くから食べられてきたもので、ボルシチよりもむしろこちらが最も伝統的なロシア料理と言えるでしょう。今でも、特にロシアの北の方ではビーツよりもキャベツがよく採れるため、どちらかというとシチーが好まれる傾向があります。ウクライナでも多種多様な具だくさんのスープはよく食べられていますが、やはりボルシチが特に愛されているという印象を持っています。ウクライナの生活や文化に詳しいリヴィウ大学の原真咲さんによると、ウクライナでは寿司レストランやピザ店のような店にもボルシチのメニューがあるそうです。
――日本人にとっては、ボルシチという料理の名前は知っていても具体的なイメージを描きにくいところもあります。そもそもボルシチとは、どのような料理なのでしょうか。
ウクライナでもロシアでも、ボルシチはレストランのメニューにも載っていますが、やはり身近な家庭料理の代表格であり、各家庭にそれぞれの「我が家の味」があります。入れる具材や作り方は地方によっても違い、そういう点は日本の味噌汁や雑煮に似ていると思います。先ほど挙げた『料理大百科事典』では、ボルシチのバリエーションの違いは①ブイヨンの素材、②ビーツの調理の仕方(蒸し煮、焼く、半煮)、③野菜の組み合わせ、にあると書かれており、野菜の切り方や調理法などでも違いが見られます。