それまで冷房を入れて閉め切っていた車の窓を、半分ほど開ける。怪しい者ではないことを示すためだ。幸い、特に停車要求はされなかった。
そのまままっすぐ行くと、右手に子ども用遊具が並ぶきれいな公園が見え、その角を左折すると、車は前方左手のコンクリートブロック塀が続く場所で停車した。
「ここが、マラスの若者たちを支援しているアーノルド牧師の教会です」
車を出て、塀に囲まれた敷地内に入る。
右手に大きな野外ステージのようなものが作られており、その前に沢山の折りたたみ椅子が並んでいる。それは拡張工事中の教会の礼拝所だという。椅子に座って待っていると、敷地奥の平屋の建物から、Tシャツに野球帽姿の恰幅のいい男性が現われた。アーノルド牧師(45歳)だ。
「お待たせしてすみません」
そう言いながら笑顔で近づいてきた牧師と、握手を交わす。そしてさっそく、彼が行っている活動について、話をきいた。
「私はこの地域で育ちました。20年ほど前にこの教会を任され、またアメリカ政府の国際協力組織の助成を受けたプログラムのコーディネーターとして、ギャングたちにスポーツ活動や職業訓練などを提供するセンターの活動を始めました。道ばたに溜まっては悪事を働き、隣人に恐怖を与えるのではなく、将来に役立つことを学んで欲しかったからです」
彼がさきほど出てきた建物は若者支援センターで、そこではスポーツジムやパソコンルーム、工芸品教室などが運営されている。活動を始めた頃はまず、ギャングたちをそこへ来るように誘うのが、一仕事だったそうだ。
教会を出て、さっき車で入ってきた道を一緒に歩きながら、牧師が言う。
「最初はまずマラスのところへ出向いて、彼らと話をしようと考えました。そしてある日、私は敵ではないことを示すために聖書を掲げ、この角辺りまで歩いてきました。すると突然、あの木の上にいた少年が飛び降りてきて、それと同時にどこからともなく大勢のギャングが現われ、あっという間に80人くらいで私を囲みました」
脇道の先に見える木を指差し、説明する。
「尖った金属棒を突きつけられた時は、かなり焦りました。でも幸運なことに、ギャングの中に小学生の時に一緒にサッカーをやった仲間がいて、彼が助け舟を出してくれました。それでようやく話ができたのです」
そうしてギャングたちにセンターの目的を伝えてからは、大勢の若者が集うようになった。一時は述べ300人以上のマラスメンバーがセンターに通っていたという。
「ただし、教会周辺を支配する組織のメンバーしか来ません。だから今はMSのメンバーだけです」
MSとは、二大マラスの一つ、「マラ・サルバトゥルーチャ」のこと。教会の周辺は現在、MSの縄張りで、敵である「ディエシオチョ(スペイン語で18という意味。略して18と呼ぶ)」やアンドレス少年がつるんでいた「バトス・ロコス(V.L. )」のメンバーは、足を踏み入れない。見つかると殺されるからだ。
「私はとにかく若者たちに、ちゃんとした仕事を持ってもらいたいのです」
一見平穏なスラムを散策しながら、牧師は話を続ける。
「10年ほど前には一度、近くにある自動車部品工場(マキラ)の社長に頼んで、センターに来ていたMSの若者たちのための就職試験を実施してもらいました。800人受験し、350人が採用されたんです。ところが07年に会社の担当者が代わったとたん、解雇されてしまいました。残念です」
社会の理解と協力さえあれば、ギャングたちが更生することも夢ではない。牧師はそう信じている。ところが、ホンジュラス政府は逆に、若者ギャングたちに対して、容赦のない取り締まりと弾圧を日に日に強めている。
若者たちがサッカー場として利用している空き地まで来ると、その脇で警察と軍警察に職務質問をされている若者がいた。単に自転車で通りかかっただけのようだ。牧師は警官に話しかけ、少年は知り合いだと告げた。警官のほうも「ただの職務質問です」と、愛想良く答える。
その場を離れた後、牧師が私に、「あの少年はMSのメンバーなんです」とささやいた。最近は明らかにマラスメンバーだということがわかるタトゥー、例えばMSの文字のタトゥーを入れているだけで、逮捕されることがある。だからちょっとした職務質問でも、若者たちには緊張が走るのだ。
散歩とインタビューを終え、アーノルド牧師と別れた私たちは、JHA-JAの支援を受けてギャングを抜け出した男性に会いに行った。彼が住んでいるのは、教会がある地区のすぐ隣り、V.L.の縄張りだ。アンドレスの祖父母の家は、その更に東の地区にある。まだエルネストが代表を務めていた時代、JHA-JAはこの辺りにセンターを開いて、アーノルド牧師と同じように、地域の若者ギャングたちの更生を支援していた。そのプログラムに参加して、「麻薬密売や犯罪に直接関わることはなくなった」ギャングの一人が、ホタ(32歳)だ。「直接関わることはなくなった」というのは、組織と完全に縁を切ったわけではないことを意味する。そうしたギャングのことを、ジェニファーたちは、「Pandillero calmado(パンディジェーロ・カルマード) =穏やかになったギャング」と呼んでいる。
ホタは、彼の名前、ホセ・ロベルトの頭文字をとったニックネームだ。皆が親しみを込めてそう呼んでいる。彼は現在、妻(40歳)と共に自宅でお菓子や缶詰、ジュースなどを売る雑貨店を開いている。子どもの頃は小学校にもろくに通わず、14歳でV.L.に入り、アンドレス同様、仲間とマリフアナを吸ってはブラブラ遊んでいたらしい。ところが、マラスの抗争が激しくなり、皆が武器を持つようになると、命の危険を感じるようになっていった。
「一度はMSの連中に、ライフル銃で撃たれたよ」
そう言うと、Tシャツをまくり上げ、脇腹にある傷痕を見せてくれる。ほかにも4カ所、撃たれた跡や触ると弾丸がまだ皮膚の下に残っているとわかる所がある。
「気温が下がると、うずくんだ」
いつ死ぬともしれない毎日に耐えられなくなったホタは、ある時、現役ギャングをやめる決意をする。その当時は少なくとも、「穏やかになった」だけで、ギャング仲間とのつながりを維持している場合、味方に殺されることはなかった。
「そんな時、エルネストと出会い、JHA-JAの活動に参加するようになったんだ」
彼はJHA-JAが提供していたサービスを利用してタトゥーを消し、雑貨店経営の生活に入った。娘(3歳)と妻のために、平穏な暮らしを望んでいる。
「昔の仲間のうち、30人ほどはもう死んでしまった。子どもには親が、暴力や犯罪に関わることの間違いをきちんと教え、将来を応援してあげないとだめだ。それがないと、僕らのような過ちを犯す」
彼は自分の母親が、まだ小さかった彼をはじめとする7人の子どもを残してアメリカへ行ったきり、戻って来なかったことを恨んでいるようだった。
「私の家族も以前はリベラ・エルナンデスの近くに暮らしていたので、同級生にもギャングが大勢いました」
そう話すジェニファーは、ホタのような若者を何人も知っており、彼らが根っからの悪人ではないと承知している。彼女の兄は、ギャング同士の抗争の巻添えとなって死んだのだが、その事実は彼女に恨みや復讐心ではなく、ギャングをよりよく理解したいという欲求をもたらした。だから大学では心理学を学び、JHA-JAではエデュケーターとして、ホタのような若者たちと共に、「違う生き方」を可能にする方法を考える活動を展開してきた。
「政府が、彼らに別の生き方の選択肢を提供するのではなく、力でねじ伏せようとしたために、マラスは麻薬カルテルとつながるしかなくなったのです。そして私たちも、マラスを抜けることではなく、“穏やかになる”ことを勧めるしか手がなくなりました。それを第一歩と考えることにしたのです。
「ラテンギャング・ストーリー」11 穏やかになったギャング
(ジャーナリスト)
2015/12/21