東京大学大学院工学系研究科、医学系研究科の教授で、2015年4月に設立された川崎市産業振興財団ナノ医療イノベーションセンターのセンター長も務めるDDS研究の第一人者、片岡一則氏に、DDSのしくみと現在の状況、今後の展開についてうかがった。
DDSは「トロイの木馬」
ギリシャ神話に登場する「トロイの木馬」。これは、トロイア戦争で使われた装置で、巨大な木馬の中に多数の兵士が潜み、敵陣に運び込まれたあとで木馬の中から出てきて敵を攻撃するというものです。私が約35年間にわたり、研究開発に取り組んできたドラッグ・デリバリー・システム(DDS 薬物送達システム)は、まさにがん細胞にとってのトロイの木馬と言えるでしょう。現在、がんの治療方法は大きく分けて3通りあります。「手術療法」「薬物療法」「放射線療法」です。しかし、いずれも課題を抱えています。手術療法の場合、患部にメスを入れるため治癒(ちゆ)に時間がかかる上、微細ながん細胞が転移する恐れもあり、手術できない箇所にあるがんは摘出できません。薬物療法や放射線療法の場合、がん細胞だけでなく正常な細胞にまで影響を与えてしまうため、患者は強い副作用に苦しめられます。
それに対し、DDSは、血管を通って運ばれた極小のカプセルが、がん細胞だけに蓄積し、そこで初めて封入しておいた抗がん剤を放出するというしくみなので、正常な細胞にほとんど影響を与えません。副作用を起こす心配がない上、効率良くがん細胞を死滅させることができるのです。
がん治療にナノテクノロジーを応用
なぜそのような器用なことができるのでしょうか。まず、がん細胞だけに蓄積する理由は、DDSで使われる“容器”の大きさにあります。DDSで抗がん剤の入れ物となる「ナノカプセル」は、直径約50ナノメートル(ナノは10億分の1)の球形をしています。私たちの全身をめぐる血液の血管壁にはごく小さな隙間があり、通常体内に入った薬物はその隙間を通って周囲にあるすべての細胞に出ていくのですが、このサイズのナノカプセルは隙間よりも大きいので、通り抜けることができません。一方、がん細胞が作る血管は正常な血管に比べて粗雑な作りをしており、血管壁には大きな隙間が数多くあります。そのため、がん細胞にだけその隙間を通って入り込むことができるのです。
加えて、通常、血管から細胞に流入した物質はリンパ管を通して外に排出されます。ところが、がん細胞は未熟な細胞のためリンパ管も未発達で、一度、がん細胞に入り込んだナノカプセルは排出されることなく蓄積し続けるのです。このような、微小な粒子ががん細胞だけに蓄積する現象は、「EPR効果(=Enhanced Permeation and Retention Effect)」と呼ばれています。
さらに、ナノカプセルががん細胞に入り込んで初めて、抗がん剤を放出するしくみにも特徴があります。これは、がん細胞と正常な細胞とでは、pH(水素イオン指数)が異なることなどを利用しています。がん細胞は正常な細胞に比べてpHが低く、酸性が強い。そこで、pHが下がり酸性が強まると、ナノカプセルと抗がん剤との間の結合が切れて、中から抗がん剤が放出されるように、あらかじめ設計してあるのです。
このように、ナノカプセルの大きさを制御することと、ナノカプセルにpHの変化によって結合が切れるなどの機能を付与することが、DDSを開発する上でのポイントとなっています。
大がかりな手術や入院治療は不要
現時点では、ナノカプセルに封入する抗がん剤が異なる5種類のDDS製剤が、実際のがん患者さんに投与して、効果と安全性を確認する「臨床試験」の段階まで進んでいます。早ければ2015年度中に承認申請を行う見通しで、申請が承認されれば、いよいよ実用化に入ります。DDS製剤は、特に難治がんに対して効果を発揮すると考えています。難治がんには、転移がん、薬剤耐性がん、薬剤の到達効率が低いがん、がん幹細胞などがあります。中でも最も怖いのが転移がんです。手術療法の場合、むしろ転移が進むこともあると言われています。しかし、DDS製剤であれば、手術が不要であり、また、転移がんをも見つけて集積していくため、転移や再発の抑制につながるのです。
また、薬剤耐性がんの場合、従来の抗がん剤では、がん細胞に到達する前に破壊されてしまうため、薬の効果が得られません。しかし、DDS製剤であれば、がん細胞まで到達してから抗がん剤を放出するので、高い効果が期待できます。加えて、すい臓がんや脳腫瘍など抗がん剤が到達しづらい箇所にも入り込むことができるので、今後、がん患者の生存率は一気に高まると考えています。
しかも、注射や点滴によって血管に注入するので、放射線療法のように大がかりな装置が不要で、いつでもどこでも治療ができます。通院治療で済むので、休職や退職の心配が要りません。その結果、発病前のQOL(生活の質)を維持することができます。
医療費も、DDS製剤と同様に副作用が少ないとされ近年注目を集めている、体内から異物を排除する免疫機能を応用した「抗体医薬品」に比べれば、かなり安価で済むはずです。抗がん剤と比べても、薬価自体は従来の抗がん剤よりは高いかもしれませんが、通院治療で済むことなどを勘案すれば、トータルコストは安くなると考えています。仮に、抗体医薬品を高級なスポーツカー、従来の抗がん剤を一般のガソリン車とすれば、DDSは、初期費用は少し高いもののランニングコストが低いという点で、さしずめエコカーといったところでしょうか。
高分子材料の研究から生まれた「人工ウイルス」
さて、私がDDSの研究開発を始めたきっかけは、1979年にさかのぼります。私の専門分野は応用化学で、修士課程まではプラスチックなど「高分子材料」の開発を行っていました。そして、博士課程に進む際、指導教官に、「医療に役立つ高分子材料を開発してはどうか」と勧められたのです。そして79年、博士課程修了後、東京女子医科大学医用工学研究施設に助手として入りました。そこでは人工臓器などに使う高分子材料を研究開発しました。人工臓器の場合、体内で異物反応を起こさず、血液が凝固しないことが重要です。こういった研究が、のちのDDSの研究へとつながっています。
79年当時からDDSの研究はすでに盛んに行われていましたが、当時主流だったDDSに関するアイデアは、「リポソーム」と呼ばれる直径1マイクロメートル(マイクロは100万分の1)の大きさのカプセルに抗がん剤を入れて、血管内に投与するというものでした。
それを聞いた私は、二つの疑問を抱きました。一つ目は、そんなに大きなものを血管内に投与したら異物と見なされ、血液が凝固してしまうのではないかということ。二つ目は、そもそも、一体どうすればそんなに大きなものが血管壁を通過してがん細胞に到達できるのかということです。しかし、誰も私の疑問に答えることはできませんでした。そこで、私は「これは研究する価値が十分ある。よし、私がやってやろう」と考え、DDS研究に注力することにしたのです。
私がDDSの材料として選んだのは、「ブロックポリマー」と呼ばれる高分子材料で、異なる種類の高分子材料同士をブロックのようにつなげたものです。具体的には、水に溶けやすい「ポリエチレングリコール」と、水に溶けにくい「ポリアミノ酸」を結合させました。いくつかの論文から、この構造であれば、血管に投与しても血液が凝固しないことが分かっていたからです。
また、大変都合が良いことに、抗がん剤をポリアミノ酸に結合させると、抗がん剤の周りをポリアミノ酸が取り囲み、さらにその周りをポリエチレングリコールが包み込むという構造がごく自然に出来上がります。