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2017/7/25FREE

「相模原障害者殺傷事件」への「怒り」は足りていたか

いま私たちが積み重ねるべき言動について

時事オピニオン

荒井裕樹

 2016年7月26日未明、神奈川県相模原市の障害者施設で起きた凶行から一年。この事件に私たちはどう向き合うべきか。障害者運動や障害者文化論などを研究してきた二松學舎大学専任講師の荒井裕樹氏は、「障害者の生命と尊厳が傷つけられたこと」に対し、社会的な「怒り」が足りていないのではないか、と疑問を投げかける。

「相模原事件」にどう向き合うか



 あの凄惨な事件から一年が経つ。まずは、生命を奪われた方のご冥福を祈り、いまなお癒えない傷を抱えた方の心の内を推し量りたい。
 一方で、この事件を追う人たち(報道関係者や障害者団体関係者)からは、早くも事件の風化を懸念する声が漏れている。この原稿を書いている7月現在、まだ殺人罪などで起訴された植松聖(さとし)被告の公判もはじまっておらず、現場となった建物の再建問題も確たる結論が出ていないというのに。
 私は「相模原事件」にどう向き合うかが、この社会の未来を決めると思っている。重い障害を持つ人たちと共に、私たちはどのような社会を作ろうとしているのか。その理念や哲学が問われている。
 このことを前提に、本稿では「相模原事件」に関連して気になっている二つの事柄について書いておきたい。

不気味な「安楽死」のニュアンス



 一つは、かつて、この社会で議論の末に退けられたはずの言葉や概念が、いつの間にかよみがえっている不気味さについて。具体的には、事件を起こす5カ月前の16年2月、植松被告が衆院議長に宛てた「手紙」(ほとんど犯行予告)にあった「安楽死」という言葉についてだ。
 この言葉は一般に、回復の見込みのない末期状態の患者に対し、本人の意向を尊重して、耐えがたい苦痛から解放されるために死に至る処置を施すこと、といった主旨で使われる。しかし、例の「手紙」で使われた「安楽死」は、どのように読んでも、こうとは解釈できない。むしろ前後の文脈を踏まえれば、「不幸を作り出すことしかできない障害者を殺すこと(殺してあげること)」といった意味合いで用いられている。
 極めて自分勝手な理屈にめまいがするほどの嫌悪感を覚えるが、私が真に不気味に思うのはこの点ではない。というのも、かつて「安楽死」という言葉には、同様の意味合いが含まれていたことがあるからだ。
 経緯を説明しておこう。煩雑にならないよう簡略な記述に留める(注1)。
 日本で「安楽死」という言葉が社会的な関心事となりはじめたのは1960年代初頭と言われている。この時期、ベルギーで障害児を殺害した家族や医師らに無罪判決が下ったことが大々的に報じられたり(62年11月)、司法の場で「安楽死」の要件が示されたり(名古屋高裁山内事件判決:62年12月)したことで、「安楽死」という言葉が一般向けの週刊誌などにも頻繁に登場した。
 当時の週刊誌などに掲載された「安楽死」の議論に目を通してみると、この言葉に現在とはかなり異なるニュアンスが含まれていたことがわかる。つまり、社会や家族の負担となり、生きていても仕方のない障害者を「安楽」に死に至らしめること、といった意味合いが含まれているのだ。
 ただ、当時はこのことに対して特に批判的な意見は出ていない。一部の障害者団体が敏感に反応しているが、はっきりとした反論はなされていない。

半世紀前の亡霊



 この言葉をめぐる状況は70年代に大きく変化する。多くの障害者団体から、障害者を標的にした「安楽死」は許さないという問題提起がなされたのだ。特にナチス・ドイツの障害者虐殺などが引き合いに出され、安易な「安楽死」肯定は障害者差別につながるといった批判が展開された。
 この批判の先頭に立ったのが「日本脳性マヒ者協会青い芝の会」(後述)であり、リベラル系の知識人の一部もその主張に同意したこともあって、「安楽死」という言葉には拭いがたい負のイメージが貼り付いた。70〜80年代に障害者問題に関わった人の中には、このニュアンスを肌感覚で記憶している人もいるだろう。
 先に私が示した不気味さは、この点に関わる。植松被告が使った「安楽死」という言葉は、かつて障害者運動に関わった人たちが全力で批判したはずの意味合いで使われている。彼が当時の言論状況を知っていたとは思えない。そんな事情など意識することなく、「安楽死」という言葉を、あのような意味合いで用いたのだろう。
 そう遠くない昔、私たちの社会の中で、議論の果てに「望ましくないもの」や「悪しきもの」として退けられた言葉や概念が、いつの間にかよみがえっている。まるで半世紀前の亡霊が現れたかのような観がある。
 現時点では、植松被告の「安楽死」観が広い支持を得るとは思えない。共感する人も多くはないだろう。しかし、「言っていることはわからなくもない」程度に受ける止める人は確実に存在する。
「わからなくもない」人たちが存在するからといって、すぐに同じような蛮行が繰り返されるとは断言できない。しかし、そういった意見の層が厚くなれば、障害者への人権侵害を黙認する風潮は確実に高まるだろう。

踏みにじられた「尊厳」への「怒り」が足りない



 もう一つは、現在の社会状況に関わるもので説明が難しい。強いて言えば、この事件に対する「怒り」が足りないのではないか、という点だ。
 この一年、自分なりに事件をめぐる「言葉」を追いかけてきた。各地で追悼集会が開かれ「悲しみ」がわかちあわれた。信じがたい凶行への「恐怖」が吐露された。識者からは、この事件が「精神障害者」に対する偏見を助長しかねないことへの「懸念」や「憂慮」が繰り返し示された。
 事件に関心を持つ人たちは、冷静かつ誠実な言葉を積み重ねてきた。ただ、19人もの障害者の生命と尊厳が奪われたことへの「怒り」の言葉は少なかったように思う。社会全体に目を向けてみても、事件の規模と残忍さを思えば、もっと「怒り」が共有されてもよいはずなのに、この事件に向き合おうとする熱量は上がっていない。
 社会の関心が高まらない背景には、被害者の顔が見えない異例の匿名報道もあるかもしれない。「怒り」よりも「おぞましさ」が先に立ち、早く忘れてしまいたい人が多いのかもしれない。しかし、最大の理由は、この事件が「障害者施設という遠い世界で、異常な人間が起こした例外的な事件」として受け止められていることにあるように思えてならない。

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二松學舎大学専任講師

荒井裕樹

1980年、東京都生まれ。2009年、東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院人文社会系研究科付属次世代人文学開発センター特任研究員を経て現職。専門は障害者文化論・日本近現代文学。著書に『隔離の文学』(11年、書肆アルス)、『障害と文学』(11年、現代書館)、『生きていく絵』(13年、亜紀書房)、『差別されてる自覚はあるか』(17年、現代書館)などがある。

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