中島岳志さんと若松英輔さんーー“コロナ後”を見据えての対論連載第6回。空海(弘法大師)についてのお話の後編をお届けします。さて、唐から帰国した空海は……
中島岳志さんと若松英輔さん
*「いのちの政治学~コロナ後の世界を考える」第5回 空海の世界観が教える〈参与する〉ことの大切さ(前編)はこちら
ライバル・最澄との決裂
中島 続いて、唐から戻ってきた後の空海の歩みを見ていきましょう。
当初の予定よりもかなり早く留学を切り上げて帰ってきたために、しばらくは朝廷から都入りを許されず、九州に留め置かれたりしていた空海でしたが、帰国から約3年後の809年にようやく入京。高雄山寺(現在の神護寺)を拠点に、真言密教の教えを説いて回るようになります。
高雄山寺入りには、同じく唐での留学生活を経て帰国した僧・最澄の手引きがあったともいわれています。最澄は空海よりも7歳年上で、すでに僧として一定の地位を得ていたエリートでしたが、空海の能力を誰よりも正確に見極めていた人でもあった。それで、密教についてもっと深く学びたいと、空海に弟子入りして教えを請うようになるのです。
しかし、この二人の交友関係は、7年ほどで終わりを迎えます。弟子の処遇をめぐっての対立などがよくいわれますが、私はもっと根本的なずれがそこにあったと考えています。「コトバの人」であった空海に対し、最澄はどこまでも「言葉の人」であった。だから、仏の教えもまた言葉で把握できる、ゆえに経典は翻訳可能なものだと考えて、サンスクリット語の学習を重要視しませんでした。一方、空海はサンスクリット語の経典とは言葉であると同時に真言、それそのものがコトバの一端であると考えた。だから翻訳して解釈するのではなく、そのまま音として自分の中に取り入れなければならないと考えて、サンスクリット語を熱心に学んだのです。井筒俊彦がいう「純粋シニフィアン」ですね。シニフィアンとは言葉の「音」そのもので、まさに言葉以前のコトバですね。コトバと言葉を繋ぐ「真言」と言ってもいい。その世界観の違いが、二人の決裂を決定づけたのではないでしょうか。
若松 そもそも仏教の伝統というのは、口移しに伝える「口授」(こうじゅ)なんですよね。これを文字に直して伝えることはできない──というよりも、文字に直した時点で違うものになってしまうんだと思います。
プラトンが書簡(第七書簡)の中で、「哲学の本質は言葉にできない。それは人間の魂から魂へ、火花のように飛び火するものだ」ということをいっています。学びというのはそうして、魂から魂へ火花が飛んでいくことであり、それが蓄積されて燈明になっていくということなのでしょう。それに近い感覚を持った空海と、言葉を基軸にした最澄の違いとは決定的だった。もちろん、最澄は最澄で、非常に優れた人物です。しかし、二人の世界観の差異は容易に埋めがたいものだった、ということだと思います。
「彫り出す」ように山を開く──高野山という曼荼羅
中島 この最澄との決裂と前後して、空海は国家との関係を深めていくのですが、その際に空海が朝廷に求めたのは権力ではなく、修行の場としての高野山の下賜でした。そしてその山内に、大伽藍の建立を進めていくのです。
高野山根本大塔
私は、これは空海にとって単なる寺院の建立ではなく、それによって高野山全体を立体的な曼荼羅にしたいという思いがあっただろうと考えています。それも、自分が主体となって山を開いていくという感覚ではない。一流の仏師が仏像を彫るときに、木の中にすでに眠っている像を彫り出していくといわれるように、高野山に宿る仏の姿を現すために、「彫り出すように」山を開いていく。それによって高野山という立体曼荼羅を表出させるというように、空海は考えていたのではないでしょうか。インドのエローラに、実際に巨大な岩を彫り出してつくられた石窟寺院群がありますが、空海もそれと同じように「寺院をつくる」というよりも「寺院を彫り出す」という感覚をもっていたのだろうと思います。
若松 「彫り出すように」高野山をつくっていったというご指摘は卓見ですね。そして、これからの私たちの世界のあり方を考えるときにも非常に重要な考え方だと思います。
今ある世界に何かを足していく、たとえばビルをどんどん建てていくというのではなくて、すでに世界に潜在しているものを彫り出すようにして街をつくっていく。世界そのものがすでに「何ものか」であるわけだから、私たちがやるべきことは、その秩序を整えていくことだけ。高野山は、そういうあり方を教えてくれているのではないかと思います。
土井善晴
1957年大阪生まれ。料理研究家 。十文字学園女子大学 特別招聘教授、 甲子園大学客員教授。大学卒業後スイス、フランス、大阪にて料理修行。料理学校講師を経て1992年に独立。「おいしいもの研究所」代表。

柳宗悦
1889~1961年。思想家、美学者、哲学者。学習院高等科卒業のころから文芸雑誌『白樺』の創刊に参加。東京帝国大学哲学科を卒業後、宗教哲学や西洋近代美術に関心を寄せ、朝鮮陶磁器や無名の職人が作る日常品の美に魅了される。日本各地の手仕事を調査・収集し、1925年に民衆的工芸品を称揚するため「民藝」という新語をつくり、民藝運動を起こす。
1936年日本民藝館を開設、初代館長に。多くの展覧会や各地の工芸調査など、旺盛な執筆活動を行う。1957年文化功労者。

濱田庄司
1894~1978年。陶芸家。東京高等工業学校窯業科に進学し、のちに陶芸家となる河井寛次郎と出会う。卒業後、河井と同じく京都の陶磁器試験場へ入る。1920年にバーナード・リーチとともに渡英。陶芸家となる。23年に帰国。24年から益子へ移住。柳宗悦や河井寛次郎とともに民藝運動を創始。55年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定、68年に文化勲章を授与される。

志村ふくみ
1924年滋賀県生まれ。染織家、随筆家。31歳で植物染料と紬糸による織物を始める。
1990年に紬織の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。著書に『一色一生』(大佛次郎賞)、『語りかける花』など。作品集に『織と文』、『篝火』、『つむぎおり』など。2013年に芸術学校アルスシムラを開校。
