ある夜、8人の子どもが一度に運ばれてきた。道端でとても面白そうなものを発見し、みんなで蹴ったり突いたりして遊んでいたのだが、それは時限爆弾で、そこにいた8人の男の子たちの手や足を吹き飛ばした。私たち外科チームは、朝まで彼らの四肢を切断する手術に追われた。ようやく手術が終わり、まだ麻酔で眠っている子どもたちの寝顔を見ながら、私は苦しくてたまらなかった。目が覚めたら、この子たちは、もう自分の手や足がないのだという現実を知らなくてはならないのだ。
空爆で夫と4人の子どもと、自分の片足を失くした50代の女性は、麻酔から目を覚ました時、私の目を見て「死なせて」と言った。任務中は泣かないようにしているが、この時は彼女の手を握りながら泣いた。
ある地域では、空爆から逃れるために、地雷原と分かっていてそこを通り、安全地帯への脱出を試みる人々が続出した。
連日、地雷の被害者を収容しているうちに私はある法則に気づいた。集団で運ばれてくるのは家族や親せきで、このうち必ず1人が息を引き取るか、両足を切断しなくてはならないほどの重傷を負っている。重傷者はいつも一家の主。それには理由があった。彼らは1列になって地雷原を歩いてくるのだ。一家の主が先頭に立ち、自分の足で地雷の上か、安全な地面かを判別しながら歩いていく。途中で地雷を踏めば命とりだ。その背中を見て、後に続く妻や子どもたちは、先頭に立つ者の足跡を一歩一歩進む。それは、一家の主が自分を地雷の犠牲にして家族を守るためだった。
家族を空爆と地雷から守るために、命を失うほどのリスクを自ら引き受けたお父さんたちのずたずたになった両足を見ながら、胸が引き裂かれそうだった。
2015年、イエメン北部の山岳地帯のクリニック。空爆に遭ったが、無事な部分を使って医療活動を続けた
怪我は治せても、戦争は止められない
紛争地では、中立の立場で人道援助活動を行っていても、さまざまな障害が立ちはだかる。私たちの安全の確保も、活動するうえでの絶対条件なのだが、特に近年は、医療施設が空爆される事件が続発し、この条件を脅かしている。
たった一つの命令、たった一つのボタンによって爆弾が落ちてくる空の下で、医療活動は妨害され、罪のない多くの一般市民が恐怖にさらされ、血を流し、泣き叫んでいる。誰もが平等に与えられてしかるべき医療すら自由に提供できない紛争地で、全く戦争に加担をしていない一般市民を救っても救っても、すぐにまた血だらけの死にそうな人が運ばれてくる。そんな日々を繰り返すうちに、私は戦争そのものを止めなくてはいけないと思うようになっていった。
MSFは医療援助団体だ。もちろん私に与えられた任務も、目の前の患者さんに医療を提供することだ。しかし、私が行っている活動は、戦争を止めるための根本的な動きに繋がっていない。そのことにジレンマを抱くようになっていった。
ジャーナリストを志す
このジレンマが頂点に達した時、私は人生の軸としてきた看護師という職業をやめ、常に憧れと尊敬の対象としてきたMSFを去り、ジャーナリストになろうという大きな決心をした。
私は怒っていた。自分が目撃している現状を国際社会に訴えて、戦争を止めるための動きに繋げようと思ったのだ。報道では、どの国で戦争が繰り広げられ、空爆され、何人が死亡した、というニュースが流れる。しかし、私の目の前の光景――砕けた骨が皮膚から飛び出し、裂けたお腹から内臓が突き出し、もはや人間の姿をとどめていないような人々の姿までは伝わっているのだろうか。誰かが伝えなくてはならないのではないか。さもないと実情は知られないまま、いつまでも戦争が終わらず、さらに多くの人々が世界に見向きもされずに血を流し死んでいくことになる。
ただし、私にはジャーナリストになるための手段が全く分からなかった。紛争地から日本に戻ったときに、何人かのジャーナリストに相談もしてみたが、彼らはそろって同じことを言った。「それは自分たちが頑張っているから任せておきなさい」。
看護師として現場の援助を続けるようにと説得されたのだった。
2015年、16年に派遣されたイエメン西部、イッブ州
「看護の力」に気づく
一体どうしたら良いのだろうか。心の整理がつかないまま、再び紛争地派遣の依頼を受けた。また同じようなジレンマに苦しむことは分かっていたが、今、苦しんでいる患者さんがいると知っていて依頼を断る気にはなれなかった。
しかしこの時の派遣先で、私のその後の人生を左右する大きな気づきを与えられる。きっかけは、ある女の子との出会いだった。彼女は戦争が始まる前まで、普通に高校に通っていた。一瞬で始まってしまった紛争の中で、彼女は空爆の被害に遭った。両足がめちゃめちゃになったことで完全に心を閉ざし、ふさぎこんでいた。そんな彼女に、私は手術室以外でも毎日話しかけ、その手を握り、気にかけ続けていたが反応はなく、彼女はベッドで独り、傷の痛みと、心の痛みと戦っていた。
そんな日々を過ごしているうちに、帰国しなくてはならない期限がやってきた。そこで、最後に、と彼女に声を掛けてみた。私はもう帰国してしまうけど、あなたのことを忘れたくない、日本でもあなたの顔をずっと見ていたいから、だから一緒に写真を撮りたいのだと伝えた。すると、シャッターを切る時、ついに彼女が笑った。私と手を繋ぎながら一緒に笑っている素敵な写真が撮れた。思わず彼女を抱きしめた。
この時に気づいたことがある。それは、私が看護師だから、この子の笑顔を見ることができた、ということ。看護師として、この子の手を握り、気に掛けていたから、見ることができた。この日の彼女は言葉を発しなかったかもしれない。でも笑った。私はこの笑顔から、言葉以上のメッセージを受け取った。ジャーナリストの仕事も大変尊い。だけどやはり私は看護師なのだ。看護師として現場に戻ってきて良かった。かつて心の声に従って選んだ、看護師という職業の素晴らしさに改めて気づいた瞬間だった。
理想の医療など紛争地に存在しない、そう思っていた。物資にも薬剤にも人材にも限りがあり、思うような医療を提供できない中では、志さえ踏みにじられてしまう、そう思ってもいた。医療行為では戦争を止めることはできない。それも事実だ。では、その限界を知ったうえで、私たちに求められているのは何だろうか。
それは、その時にできる、最善を尽くした医療を提供することだ。時には、手を握ること、話しかけること、これだけでも良いのかもしれない。傷や病気の治療という、直接的な医療ではない。