2017年、シリアで。負傷した男性を治療する
重傷を負い、見つめあう父娘
ある日も、地雷の被害にあった集団が運び込まれた。その中で生き残ったのは親子2人。20代の父親と4歳の娘だ。母親と、彼女が抱いていた赤ちゃんは亡くなった。2018年に刊行した拙著『紛争地の看護師』(小学館)では私が紛争地で遭遇したエピソードを数多く伝えているが、この2人のことは自分の中で感情の処理ができず、とうとう最後まで書くことができなかった。講演や取材の中でもほとんど持ち出したことがない。しかし、それから2年の歳月が過ぎ、思い出すとつらいのは相変わらずでも、いつか話さなくてはいけないという思いも強くなってきた。
父親は、両足の損傷が激しく、両側の大腿から下を切断した。割れた額から見える頭蓋骨も砕けていて、細かい爆破物の破片が身体じゅうに突き刺さっていた。4歳の娘は腸管が損傷していたため、人工肛門を作り、大腿の開放骨折(骨折とともに皮膚が損傷し、骨が露出している状態)と、大きくえぐれたお尻の傷も同時に手術した。夜に差し掛かりようやく2人の緊急手術を終え、ICUでは2人を隣同士のベッドに配置した。
夜が明け、手術後に2人が収容されているICUを訪問した。毎度のことではあるが、手術を終え、麻酔から目を覚ました患者さんの姿を見るのがどうしてもつらい。自分の手が、足が、なくなってしまったことを知る時であったり、家族は亡くなり、自分だけが助かったという事実を知る時であったりもする。傷の痛みとも戦いながら、取り乱し泣き叫び、患者さん達の精神的な痛みとの戦いもこの時から始まる。
この日も、手術から一晩たち、意識が回復しているであろう2人の姿を見なくてはいけないと思うととても気が重かった。ICUに入ると、夜勤担当の看護師が忙しそうに動いていた。2人はそれぞれのベッドにいた。眠っているのかと思ったがそうではなかった。2人はベッドの上で仰向けに横たわり、顔だけをお互いの方向に向けていた。
4歳の娘の、アラブ人特有の厚い二重と濃いまつげにふちどられた大きな瞳はぱっちりと開いていた。その瞳は2人のベッドを隔てる柵と柵の、その先を見つめていた。両足がなく、両腕も体幹も顔も包帯に包まれた男性は――いや、包帯で顔も覆われていては、男性かどうかも判別がつかない。しかし、4歳の彼女の大きな瞳は、わずかにあいた包帯の隙間の奥から彼女を見守る「父親」を確実に捉えていた。2人は時が止まったかのように、いるはずのない見知らぬ場所で、お互いに変わり果てた姿になりながら、ただただじっと見つめ合っていた。声を出すことも、動くこともなく。
私はその部屋から飛び出してしまいたかった。
命を救えても……
本来、医療の役割とは、患者さんの身体だけではなく、精神的にも社会的にも包括的に支えていくことである。しかし紛争地の医療ではどうしても救命優先になってしまうために、救命の先、つまり精神的ケアやリハビリを経て、退院後に社会生活を送れるようになるまで患者さんを診るということが難しい。それは大きな課題の一つである。
私たちはこの父娘の命を救ったが、その先までは手が回らない。同じように救命しなくてはならない緊急案件が常に入ってくるからだ。予後を引き継げるような連携機関があればよいが、情勢が混乱している紛争地ではそれもなかなか望めない。ISの支配下で生き抜き、空爆と地雷の恐怖をくぐり抜け、足を吹き飛ばされ、家族を亡くし、戻る家がない。生き残ったからこその地獄が始まるというのに、救命以外に何もできない私たち医療者はここでいつも、無力感に苦しめられる。
この父親は、やはり包帯に覆われている娘を見つめながら何を思っていたのだろうか。大変な怪我を負った愛しい我が娘を見つめることしかできない自分を呪っていただろうか。それとも、自分にできる精いっぱいの愛情表現として、包帯の隙間から幼い娘を見つめ続けることで彼女を安心させてあげようとしていたのであろうか。
見つめ合う2人を見ながら、もはや医療者という枠をとっくに超え、同じ人間として泣き崩れてしまいそうになっている自分がいた。
しかし周囲を見渡すと、夜勤明けでまだ働き続けているICU看護師たち、救急室で患者のために動き回っている医師や看護師、今日もまた待ち構えている長い手術リストのために準備している手術室看護師たちがいた。彼らのほとんどがシリア人だ。この父娘のために生じた無力感がどれほど苦しくても、立ち止まる時間はないのは明らかで、私は自分で自分の背中を押すようにして、次の患者のために歩きだすしかなかった。
運び込まれた少年は、全身にやけどを負っていた(2017年)
医師からもらう誇りと勇気
MSFの活動現場には、世界中から医師たちがやってくる。自国の病院で働いていれば、整った環境の中で、思い描くとおりの医療を障害も妨害もなく行えるであろうが、中には有給休暇を全て使用し、勤務する病院や反対する家族の説得などの苦労を背負いながら、それでも参加してくる医師たちもいる。
また、地元の医師たちはまた違う状況に置かれている。日本ではおよそ考えられないが、中立の立場で人道的な医療援助を行う、ただそれだけのために、時には自国の政府から身を隠さなければならないこともある。自分たちが生まれ育った国だというのに……。私たちのような海外派遣スタッフには帰国という終わりがあるが、彼らにはそれがない。自分や家族の身を守るために医療活動をやめるという選択もあるだろうに、不当な権力や戦争の暴力に立ち向かい、医療活動を行っている。
紛争地では、理想の医療を求めていてはすぐに心が折れてしまう。薬剤、機材、人材が限られる中、思うような治療方針が立てられない。切実に医療を必要としている患者のもとにたどり着けないこともある。時には病院を空爆されるなどという恐怖も味わう。そんなストレスに直面しながらも、医師たちは感情に流されず、淡々と冷静に、その時にできうること、」なすべきことを考えながら活動している。彼らに比べて私はメンタルが弱いと思うことも多い。もっとも、医師と看護師では当然業務が違うため、ストレスは比べるものではないと思うが、それにしても周りの医師たちはみな強い、というのが私の印象だ。
そんな医師たちの姿を見るたびに、私は彼らの医療に対する信条に頭が下がる。