爆傷患者の手術をしたいから、あれとあれを準備しておいてくれる?」と、先生はいつも温和な口調で伝えてきた。
私はこの後も世界中の外科医や麻酔科医と働くことになるのだが、医師たちによる緊急時のスタッフの呼び出し方にはかなり個人差があり、それを比較するととても面白い。世界の終わりのような興奮状態で早口にまくしたて、手術室でも鎮まらない医師もいるし、冷静ではあるが明らかにぶっきらぼうな口調の医師もいる。いつ、どんな時でも私たちが行うべき仕事内容に変わりはないが、チームで仕事をする上で1人だけテンションやムードが違うと周りのスタッフにも影響を及ぼしてしまう。田辺先生のように、常に一定の、落ち着いた対応をしてくれたほうが私たち看護チームもサポートしやすかった。私自身、緊急事態には焦ったり興奮したりしてしまう癖があったので、田辺先生を見ながら「どんなに緊急時でもこんなに落ち着いていていいのだ、むしろこのような時こそ落ち着かないといけないのだ」と、とても勉強になった。
尊敬と、親しみと、甘い思い
アデンでは、田辺先生の任期終了まで1カ月ほど一緒に活動した。
MSFの海外派遣スタッフは、自宅から通える現地スタッフとは違い、基本的には1つの場所で共同生活を行う。私たち手術室のメンバーは、1日の仕事を全て終わらせて宿舎に戻るのがだいたい遅くなるので、そのような時は疲れた体を引きずりながらキッチンに向かい、冷めたご飯をみんなで食べた。さっと食べて部屋に戻るスタッフもいたが、私と田辺先生はこの時間によく、日本語でいろいろなことを話した。家族のことや、MSFに参加する前の生活のこと、また先生の趣味がサーフィンだということに驚いたりもした。体はくたくたなはずなのに、日本語でのおしゃべりは楽しくて、逆に疲れを癒してくれた。どんな手術もこなす田辺先生は、私にとってはスーパーヒーローのような存在に思えたが、宿舎では手術着からリラックスした部屋着に変わり、たわいのない身の上話に花が咲く。「ああ、普通の人間なんだなぁ」と親近感も覚えたものだ。
1カ月が過ぎ、彼がいなくなってしまうのはとても寂しかったが、そこはMSF。出会いと別れの繰り返しは今に始まったことではない。田辺先生に限らず、誰に対しても別れはシンプルにと心掛けているのだが、帰り際に田辺先生は「ゆうこりんが帰国したら日本でデートしよう」と言ってきた。先生としては「ご飯にでも行こう」という軽い意味であったのは間違いないが、「妄想は自由」と自分に許可して、田辺先生のことをバカンスでのひと時の甘い思い出のように変換し、その思いを抱えて残りの1カ月を過ごした。のちに当の本人にこの時の話を持ち出してからかってみたところ、「え? 俺そんなこと言ったか?」と全く記憶にないようだった。それどころか「ゆうこりんは俺の戦友だ」と言ってきたので、私の甘い思い出はあっけなく幕を閉じた。
さらに過酷なシリアへ
私たちがアデンで働いているころ、シリアでは不穏な動きがみられていた。全世界に衝撃を与えた「アラブの春」と呼ばれる民主化運動が中東や北アフリカの各国で様々な変化をもたらし、これをきっかけにシリアでは2011年に内戦が勃発。アデンで一緒に働いていた麻酔科医師や、麻酔科専門看護師も次はシリア行きの依頼が来ていると教えてくれた。そしてその話は私にもきた。イエメン派遣を終了した数週間後には、私はシリアのイドリブ県に足を踏み入れていた。2012年のことである。
MSFは外科病院を緊急でオープンし、イエメン同様に戦闘の犠牲者を昼も夜も受け入れた。イエメンと違っていたのは、医療活動を行うにあたってはるかに多くのジレンマが立ちはだかっていたこと。MSFはシリア政府から入国と医療活動の許可を得られないまま活動を始めたため、隠れて目立たずに患者の治療を行わなくてはならなかった。これは物理的にも精神的にもとても難しいことであった。負傷した市民たちも、政権側の厳しい検問を避けながら、何時間もかけて私たちのもとにたどりつくという状況だった。病院、といっても民家の中身だけを改造したものであったが、その上空に飛行機がやってきて旋回したのちに、周辺に爆弾が何発も落ちてきたことがある。イエメンのように政府の許可を得て行っている医療活動ではないことが、常に私たちに緊張をもたらしていた。
2013年のシリアで
シリアでの活動には2012年と2013年に、2回連続で3カ月ずつ参加した。2回目の派遣地に、今度は田辺先生が来ることになった。私は実はこの時、体が本当につらくなってきていた。でも先生が来るまでは気力で頑張ろう、先生の顔を見てまた日本語で会話できたらきっとエネルギーが湧いてくる、と信じて到着を待っていた。ところが、田辺先生の行き先はギリギリになって、シリアのまた別の地域に変更となり、私はとてもがっかりしてしまった。
「帰っておいで」と言ってくれる人
田辺先生はこのころ私によくメッセージをくれていた。それは私への励ましではない。「もう帰っておいで」というメッセージだった。「そこまでして頑張らなくていいんだよ」「ゆうこりんはもう十分頑張ったよ、早く帰っておいで」という言葉が連日送られてきていた。
私のエネルギーは確かに限界だった。チーム内には燃え尽きてダウンしてしまったメンバーもいた。私はそのようになってはいけないと気をつけ、夜の緊急の呼び出しには自分に点滴を打ちながら応じ、5分程度の時間が空けば横になって体を休めながら頑張っていた。
どんなにつらくても任務を途中で終えて早期帰国をするなど絶対に考えられない。そんな私に田辺先生は「帰ってきなさい」というメッセージを送り続けた。時には「もう帰るってチームにちゃんと伝えた?」「今までお疲れさま」と、まるで私の早期帰国が決定したかのような書きぶりだった。与えられた任務は何が何でもこなそうという気持ちにしがみついていた私は、田辺先生のメッセージを受け取るうちに「そうか、つらくなったらやめていいのか」と思うようになっていった。
彼は本当に私を帰国させるつもりで発信していたのだと思うが、結局私は最後まで任務を果たした。私が今つらいのだと分かってくれる人がいる。「つらかったらやめてもいいのだ」という思いが逆にエネルギーとなって、最後の日までシリアで頑張ることができた。
シリアに出発する前には、遺書を書こうかどうかという、一体誰に話したらいいか分からないような相談まで聞いてくれた田辺先生は、いつの間にか、私が弱ったりつらくなったり迷った時に連絡をしてもいい人になっていた。私の心がゆるむような返信を期待して「もうやめてもいいかな?」と送ると、その期待は決して裏切られることはない。逆に私が元気に頑張れている時には、つい連絡しない期間が長くなってしまう。すると「ゆうこりん生きてるか?」と生存確認のメッセージが送られてくる。そんなやり取りが私の派遣人生の中で何度も繰り返されてきた。
つらい時に心をゆるめてくれる“戦友”
2020年6月。私は医療援助活動の一線を離れて、MSFの日本事務局で採用を担っている。