男性患者用の病室は6人ほどを収容できる相部屋が1つしかなかったので、少し無理をして、別のところにモハメドを隔離するために場所を作ってみた。廊下もトイレも1つずつしかないような小さな病院においてはあまり意味のない、形だけの措置ではあった。本来であれば彼の安全を守るための護衛兼監視役もつけるべきなのであろうが、そのような人材の余裕もなかった。
私がモハメドに一番初めに接したのは手術室だ。緊急手術が必要な患者として救急室のスタッフから引き継いだ。20代半ばで小柄な彼は下半身を銃弾で負傷しており、一時的な治療を手術室で行った。傷の完全治癒までしばらくの入院は必須で、この先何度も手術室に通うことになるだろう。戦争で負った傷というのは、大抵が1度や2度の治療で癒えるものではない。麻酔から覚めた彼を今度は病棟のスタッフに受け渡し、その後は新たに救急室からやってきた患者の対応に切り替えた。
敵兵に手を差しのべる人々
ある日、病院内の廊下でモハメドの姿を目にした。トイレにでも行くのか、傷を庇い、壁をつたいながらゆっくりと歩行しているその彼を、見覚えのある人物が隣で支えていた。あれは確か別の患者の家族ではなかったか。すれ違いざまに一瞬そう思ったが、別の用事に気を取られていたのでその時は頭に残らなかった。
次に彼の歩行姿を見かけた時にも、彼はやはり誰かに支えられていた。支えていたのは、私たちが現地で雇用した通訳の青年だった。そうか、モハメドには家族や友人、知人などの付き添いがいないのだ、とここで初めて気づいた。もちろん病棟担当の看護師たちがそのあたりはきちんと把握しているはずではあるが、私は手術室の担当なので、患者の病棟内での生活をあまり気に留められる立場になかった。
私自身、過去に何度か入院した経験から、付き添いのいない病院生活がいかに不自由であるかは十分に理解している。たとえば物を取るという動作1つを取っても、そばで介助をしてくれる人がいるのといないのとでは、つらさや快適さの度合いが格段に違うのだ。また、誰かが自分のためにそばにいてくれること自体が、精神的な安定にも繋がる。
モハメドに付き添いがいないということは、いったい彼はどのような経緯で誰に運ばれてきたのか、手術の承諾書をどうやって得たのだろうか。もちろんカルテには記録されていたに違いないが、経緯については記憶に残っていない。
病院は当時の前線から遠く、しかもそこは反政府意識が高まっている地域である。彼にとってゆかりのない地に運ばれてきのだろう。健康を損なったうえに独りぼっちとなってしまい、自分の行く末も含めて不安だらけだったに違いない。
ところが、そんな彼の境遇に気づき、手を差しのべたのは周りの人々だった。政府軍兵士の受け入れに拒否反応を示すのではないか、と私が危惧していた別の患者やその付き添い人たちだ。通訳の青年もそうだった。本来であればモハメドの歩行のサポートは彼の職務ではないが、自然に手を差し伸べたのだろう。モハメドのベッドに近づいて話しかけたり、彼が歩く際にサポートする人の顔ぶれはさまざまだった。付き添いのいない彼を、みんなが気に掛けはじめていた。
そのうち、モハメドの姿を男性用の相部屋で見るようになった。この頃には支えがなくても1人で歩けるようになっていた。私が廊下から見かけた時には、彼は相部屋という一種のコミュニティの中に混ざり椅子に座っていた。病院内では患者や付き添い同士、自然に交流が発生するものだ。話し相手がほしくなって別の患者の部屋を訪れるなどという光景は珍しいことではない。ただこの時、相部屋には反政府軍に属する負傷兵とその付添人(つまり彼らも反政府軍の兵士)も存在していた。
モハメドが立ち寄っていた男性患者用の相部屋
「え?大丈夫なの?」
「対立が起きてしまわないか?」
私の心配をよそに、モハメドは何食わぬ顔で誰かに分けてもらったおやつを食べていた。もともと大人しいモハメドは特別にお喋りをするわけでもなく、ただそこにいるだけという感じだった。また相部屋の住人達は、やはりそれが特別なことでもない様子で彼の存在を受け入れていた。
一般市民、反政府軍の兵士、そして政府軍の兵士。この時、相部屋にいた6人余りの患者たちは、立場は違うともみな同じ戦争によって傷つけられた人々だ。
私はその場をあとにした。やはりこの戦争で傷ついた別の患者が待っているのだ。手術室に向かう階段を下りながら、戦場では銃を向け合っているのに病院の中でそれをしないのはなぜだろうか、いざ病院で顔を合わせると、相手も同じ人間だった、ということに気づくのだろうか、などと考えていた。
国際人道法を守っているのは誰か
結局私は8年間で何度も繰り返し紛争地に派遣された。その度に戦争に加担する兵士を病院に受け入れ治療してきたが、それは一般市民の患者を相手にするのと何ら変わりがなかった。敢えて伝えることがあるとすれば、彼らも私たちと同じ人間であると分かったことだ。私が実際に接してきたひとり一人の兵士は、傷の痛みに泣き苦しみ、治りたいという希望を持ち、ご飯を美味しそうに食べ、家族を恋しく思っている。どの紛争地でも、そんな人間たちを見てきたというに過ぎなかった。
たとえば2015年、イエメンの病院でのこと。両足を負傷した兵士が包帯だらけの姿で「お母さんに会いたい」と泣いていた。まだ19歳の青年だ。こんなにも人間らしく泣く人間を、戦争に駆り立てたものとは一体なんなのだろうか。そもそも、彼は人を殺したくて前線に出向いたのだろうか。世界で起きているそれぞれの戦争にはそれぞれ別の背景があり、兵士になる人間にもそれぞれの理由があるのだろう。この若い彼は、なぜ銃を手にしようと思ったのだろうか。
武力まみれの紛争地では、私たち医療提供者がどんなに中立を誓っていても、それが通用しない。安全が確保できない時もあり、また医療を必要とする患者へのアクセスが絶たれてしまうなどの障害が立ちはだかることもある。加えて、毒ガス、クラスター爆弾、対人地雷の使用や、病院や学校の空爆など、最低限守られるべき国際人道法を無視して、権力の誇示や利益追求に走る戦争首謀者たちの非人道的な行為が後を絶たない。
ただ、前線で負傷して病院に運ばれてきた末端の兵士と、それを取り巻く人たちは、たとえ敵対する間柄でも、争いを起こすどころかお互いを同じ人間だと尊重して接していた。兵士も一般市民も、等しく戦争によって傷つけられているのに、彼らは、それがむしろ当たり前のように、最も自然なかたちで国際人道法を守っていた。
ナイチンゲール誓詞
看護師として必要な考え方、心構えを示した文言。ナイチンゲールの教えをもとに、1893年、アメリカの看護婦学校長夫人を委員長とする委員会が作成した。アメリカや日本では看護師などの戴帽式で朗読される。
