ところで、MSFはどの活動地でも、食事を作ってくれる人と、部屋の掃除や洗濯をしてくれる人を現地で雇用している。そのおかげで私たち海外派遣スタッフは活動に専念することができる。
アデンで雇用されていたのは、食事担当の女性1人と、掃除と洗濯を担当する別の女性1人だった。残念ながらこの2人の名前がどうしても思いだせない。食事担当の方の彼女は40代くらいで、英語が話せたことに加え、元からおしゃべり好きな性格でもあるのか、私たちともよく会話した。特に私たちにとって仕事の合間の最大の楽しみといえば食事だったため、ときどき台所に立ち寄っては、今日は彼女がどんな料理を作っているのだろうと覗いたりしていて、すると彼女も得意そうに自慢料理の説明をしてくれた。
一方、掃除・洗濯担当の女性とはほとんど話したことがなかった。彼女は50代くらいで、英語が話せず、さらにとても控えめな性格だったので、必要以上の口出しや職分を超えるような態度をとることは一切なく、極力私たちの生活の邪魔をしないよう慎ましく存在しているようなところがあった。おしゃべりでややおせっかいなところがある食事担当の女性とは性格が対照的だった。
彼女の姿を見るとしたら、廊下のモップ掛けをしているところか、廊下の奥の洗濯室で働いている後ろ姿か。各部屋をまわって掃除やシーツの交換、ベッド周りの整頓、洗濯物の回収をするのも彼女の仕事だった。たまたま自分が部屋にいれば、彼女にそのまま仕事を続けてもらうか、時間をずらしてから来てもらうよう頼むこともあった。
妙な形のシーツ、再び
最初に見てから何日か経って、私は再び気づいた。ベッドの上のシーツが、今日も変わった形で敷かれていた。前回とは違う形だった。
そしてまた別のある日、私は確信した。これは気のせいでも偶然でもない。意図的に行われていることなのだ。
その時はこんな形だった。シーツをベッドの真ん中できゅっと寄せ、そこでねじって半分を裏返し、頭側と足側それぞれに大きな三角形をつくっていた。さらに頭側には、飴玉を包んだ時に端にできるようなヒダが、幾重にも作られていた。それは、まさにアートだった。
私は悟った。これは、無口な彼女の思いが込められたメッセージなのだと。くたくたになって部屋に帰ってくる私たちは、必ずと言っていいほど、真っ先にベッドに横になる。その時の私たちへの「お疲れさま」か、または「お帰りなさい」とか、はたまた「海外から援助に来てくれてありがとう」かもしれなかった。
以来、私は彼女が作るシーツの形を楽しみにするようになった。毎日観察していると、いくつもパターンがあった。彼女の性格からして、気づいてほしいとか、感謝してほしいなどと思っていたわけではないと思う。気づかれるか、気づかれないか、ギリギリの、決して押し売りではない彼女からのプレゼントだったに違いない。こんなに慎ましい影のメッセージがあるだろうか。
翌日見かけた彼女は、相変わらず特に誰とも話すことなく、もくもくと各部屋のゴミや洗濯物を集めたり、廊下でモップを掛けたりしていた。
支えること、支えられること
MSFの紛争地医療を支えている人はたくさんいる。
それは、ロジスティシャンだったり、財務・人事を担当するアドミニストレーターだったり、またあらゆる勢力やコミュニティと交渉する人も必要だ。医療スタッフが活動できる場の裏では、非医療のスタッフの支えが絶対に欠かせない。
掃除・洗濯担当の彼女も間違いなく、私たちを支えてくれている大切な一人だ。どこよりも目立たない場所ではあるが、一番身近で私たちを見ている彼女だからこそ、私たち海外派遣スタッフの大変さを誰よりも理解してくれていたのかもしれない。
紛争地のような過酷な環境では、精神的な強さを保つためのエネルギーが必要だ。その精神管理の責任は、誰でもない自分にある。それでも心が折れ、倒れてしまいそうな時もある。医療支援が思うように進まないこともあるし、矛盾や理不尽が立ちはだかることもある。そんな時は、やはり誰かに支えてもらいたい。彼女がシーツに込めてくれた無言の、そして深く温かいメッセージは、帰国するまで私を確実に支えてくれた。
イエメンのアデンでは、MSFの活動規模が大きくなり、今、ますます忙しくなっていると聞く。
彼女は今でも世界中から来る海外派遣スタッフに、あの慎ましいメッセージを送り続けているだろうか。
ロジスティシャン
医療に関わらない技術系のMSFスタッフ。

湾岸協力理事会
イラン・イラク戦争を機に、1981年5月、クウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦、オマーンが設立した機関。Gulf Cooperation Council : GCC。

