医療を受けるかどうかの決定権が本人にはない女性たちがいる。家族や親族の男性の同伴がないと外出もできず、家の外に出る時は、ブルカで顔と全身を覆って歩く。男性中心主義社会の風習の中に生き、15歳前後には嫁いでいく女性たち。今回は2011年、「国境なき医師団」に参加して2回目の派遣のときの話である。パキスタンに逃れてきたアフガニスタン難民の女性たちの話を綴りたい。
反米感情の高まるパキスタンへ
2011年5月2日、国際テロ組織アルカイダの指導者、ウサマ・ビンラディンが米軍の急襲作戦によってパキスタンで殺害され、世界中で大ニュースとなった。ビン・ラディンがパキスタンに潜伏していたこと自体も当時は話題となった。
私にパキスタンへの派遣依頼がきたのは、そんな折だった。期間は6カ月。パキスタンではビン・ラディン殺害によって軋轢が生じ、国内での反米感情が高まっていた。
私には事件前の国内の空気は知り得なかったが、入国当時、そしてそれ以降もパキスタンで反米感情がしばらく蔓延していたのは肌で感じていた。国内のアメリカ関係の機関や商業施設は次々に襲われ、在住していたアメリカ人にも直接危害が加えられる事態が頻発。派遣活動中に車両移動していると、いつも目にしていたアメリカ関連の施設が、数日後には破壊されているなどということもあった。
私たちのような、国外から来ているNGOグループが大打撃を被る事件も発覚した。
ビン・ラディンの潜伏先を確定するため、CIAによって偽の「予防接種」が仕組まれたと報じられたのだ。潜伏先と思われる邸宅の住人らが、ビン・ラディンの親族かどうかを確かめるためにDNAサンプルを採取する作戦で、「抗体を調べる」という名目で近隣で採血を行っていたという。CIAの指示で偽の医療活動を行っていた医師は、パキスタン当局によって逮捕された。この出来事は、真に医療活動をしている国際NGOへの信頼を大きく損ねた。
ビン・ラディンが潜伏していたアボダバード
ペシャワールのアフガニスタン難民キャンプ
パキスタンでの「国境なき医師団」の活動は歴史が長い。国内でいくつかのチームに分かれ、その時々のニーズによってそれぞれが外科、感染症、心理ケア、プライマリーヘルスケア(基礎医療)などの分野で市民への医療援助を行っていた。過去には地震被害への援助活動をしていたこともある。
私が派遣されたペシャワールはアフガニスタンとの国境近くにある都市で、首都イスラマバードから車で3時間ほどの距離に位置する。
マーケットで賑わう道
魚売りの男性とお客さんたち
ここのチームは、アフガニスタンから逃れてきた難民の女性たちを対象とした母子保健・産科医療プロジェクトを始めたばかりだった。そして、その始まりは決して容易ではなかった。
ペシャワール市周辺にはアフガン難民キャンプが点在した。また、アフガニスタン国境により近いところに、パキスタン政府が先住山岳民の部族自治を認めている連邦直轄部族地域(FATA)があり、その地域に生活の拠点を置いたアフガン難民を合わせると、私が派遣された11年当時、パキスタン国内のアフガン難民の数は170万人ほどだった。
一口にアフガニスタンからの難民といっても、それぞれが持つ歴史的、民族的背景や、難民とならざるを得なかった理由はさまざまだ。アフガニスタン難民問題は、1979年の旧ソ連軍によるアフガニスタンへの侵攻から始まる。旧ソ連への抵抗戦争と、その後も断続的に勃発する内戦や、また史上最悪とも呼ばれる干ばつも加わって、多くのアフガニスタン市民が生活の拠点を失い、パキスタンやイランへと逃れた。
こうした難民の中には20年以上もパキスタンで生活をしている人々もいた。年月を重ねるうちに自然とコミュニティーが形成され、独自の文化や歴史が生み出されてくることは不思議ではない。