「国境なき医師団」(MSF)の看護師として初めて海外に派遣されたのは2010年のこと。行き先は激しい内戦を終えた直後のスリランカだった。
今から8年も前なので、記憶の全てをたどるのはさすがに苦労するようになってきたが、8カ月の活動の中で決して忘れられない出会いがある。今回は、スリランカの反政府勢力「タミル・イーラム解放の虎」(LTTE)の元兵士、シヴァという青年と関わった日々について語りたい。
四半世紀の間、国を二分した内戦
美しい海に囲まれた小さな島国。インドの南東の洋上に位置し、その涙型の地形から、“インド洋の真珠”と呼ばれる人気の観光地、スリランカ。いにしえの王国の栄華を今に伝える世界文化遺産遺跡や寺院をはじめ、仏教の聖地も数多くある。紅茶の産地としても有名で、「セイロン紅茶」と呼ばれる茶葉は世界中で親しまれている。透明度の高い海でサーフィンやダイビングを楽しむ観光客もいる。
こんなスリランカが、たったの9年前まで激しい内戦をしていたことをどれくらいの人が知っているだろうか。この国では、多数派のシンハラ人と少数派のタミル人との間の宗教・民族問題などから26年にもわたり紛争が続いていた。
だが、シンハラ人とタミル人は昔から仲が悪かったわけではない。戦争には、いつも何かしらの原因があるものである。
対立の根を知るにはイギリスによるスリランカの植民地支配という歴史を振り返らなくてはならない。もともと、シンハラ人とタミル人はどちらも紀元前からスリランカに定住してきた民族で、居住地域が分かれていたこともあり、長い間、表立っての対立は存在していなかった。ところが、大航海時代にポルトガルやオランダがやってきて、スリランカの部分的な植民地支配を始め、19世紀に入るとイギリスが全島を支配するようになったのだ。
イギリスは、少数派のタミル人にシンハラ人を統治させるという「分割統治」を行った。その結果、タミル人のみが高い教育を受けて高い地位に就くようになり、シンハラ人との間に大きな格差が生まれてしまった。本来はバランスの取れていた民族間の関係が崩れてしまったのだ。
その後、100年以上のイギリス支配を経て、1948年にスリランカは英連邦自治領「セイロン」として独立した。51年には、シンハラ人によるスリランカ自由党(SLFP)が創設され、それ以降、今まで虐げられてきたシンハラ人を優遇する政策を打ち出すようになった。シンハラ語を公用語に定め、またシンハラ人の多くが信仰する仏教の保護政策などを実施したことで、ヒンドゥー教徒であり、タミル語を母語とするタミル人が反発した。次第にシンハラ人とタミル人の間の確執が深まり、83年にシンハラ系のスリランカ政府軍と、タミル人の武装組織「タミル・イーラム解放の虎」(LTTE)との内戦が勃発したのだった。
国際法違反が横行する内戦の実態
内戦詳細は、特に終戦前の数年間は明らかにならなかった。スリランカ政府がメディアの紛争地域への立ち入りを禁止してしまったからだ。メディアでは、スリランカ政府もLTTEも戦時国際法に違反し、双方が民間人への残虐行為と報じられていた。
報道によると、LTTEは子ども、女性を含む多くの民間人を強制的に徴発し、自爆攻撃や前線での戦闘に駆り出した。またLTTEは戦闘エリアからの民間人の脱出を認めず、政府軍の攻撃から免れるための弾除け、「人間の盾」として利用した。事実上の人質である。
政府軍も残虐な行為は同様で、民間のタミル人が人間の盾として閉じ込められたままの地域に無差別に攻撃を加えていた。政府は、全く戦闘に加担していない、罪のない民間人を「LTTEの戦闘員」とみなし、虐殺していたという。MSFの病院にも、酷い体験をしてきた患者さんたちが大勢いた。
実は、MSFの重要な任務の1つに「証言活動」というものがある。これは、私たちMSFのスタッフが現場で目撃した知られざる事実を国際社会に向けて発信し、問題の解決を訴えていくことで、より多くの命を救えるという考えのもとに行っている活動だ。
政治的中立を原則としつつも、もしある政府が非人道的なことを行っていた場合、やはり私たちは、人道に照らしてそれを証言しなくてはいけない。ただしその証言のために退去を命じられ、その国ではもう活動ができなくなってしまうという恐れもある。情報発信が制限されてしまっていたスリランカで活動していた当時のMSFは、非人道的な行為を目撃しながらも、証言活動と引き換えに国外退去させられるより、現地に残って負傷者の援助を続けることを選択した。
26年間で7万人以上の死者を出したスリランカ内戦は、2009年5月にLTTEの指導者が死亡したことをきっかけに終結した。
MSF看護師として、初めての任地へ
私がスリランカに派遣されたのは内戦終結後1年が経った2010年だ。
7歳の頃から尊敬し、憧れ続けていたMSF。長年の夢が叶い、ついにMSFで活躍する機会を得た私は、直前まで勤めていたオーストラリアの病院を休職扱いにしてもらい、世界中の皆に伝えたいほどの喜びを抱えてスリランカへと出発した。これから体験するMSFの現場の全てを吸収しようと思った。
MSFは、最後の最後まで激戦区となったスリランカ北部にある小さな村、タミル人地域であるポイント・ペドロという場所を活動地の1つとしていて、私が赴任したのもこの村だった。北部一帯はスリランカ政府による許可がないと立ち入れず、物資や薬剤の流通も厳しく制限されていた。MSFが支援していたのはその地域にもとからあった病院で、外来、救急室、手術室の他に、8つの病棟と、200以上のベッドを備える、比較的大きな病院だった。
ポイント・ペドロの病院
MSF看護師として初めての派遣。実際に活動を始めてみると、十分な医療を受けられない人々のもとに医療を届ける喜びを実感することができた。