遠くに黒煙が立ち上る(2017年4月)
モスル解放の日
脳の深部が侵されそうになるほどの騒音を放つヘリコプターがようやく消えた。臓器に響き渡る空爆の衝撃波も、もう受けることはない。チグリス川の向こう側、ゆっくりと揺れながら空に向かってゆく2つ、3つの黒煙は、数日前までの激しい戦いの名残だろうか。
戦争の終息。2017年7月9日、イラクのアバディ首相が、国内第2の都市であるモスルの奪還を宣言し、9カ月以上にわたる戦争が終わった。いや、9カ月というのはモスルの外側にいる我々にとっての話で、モスルの市民にとっては3年を超える苦難の日々だった。
ISに制圧された街へ
2014年6月、突然やってきたイスラム過激派組織「イスラム国(IS)」(当時は「イラクとシリアのイスラム国」〈ISIS〉で、モスル占領後にISに改称)によって、モスルは電撃的に制圧されてしまった。それまで平穏に暮らしていた150万人の一般市民は、突然“よそ者”であるISに支配され始めた。厳しい戒律を強いる彼らが社会の実権を握るようになり、逆らう者、怒りを買った者は処刑される。ISは学校も乗っ取り、子どもたちに人の殺し方を教えるようになった。モスルを脱出しようとする者はスナイパーによって射殺され、携帯電話やスマートフォンを持つ者はスパイ容疑で斬首された。それらの様子が動画で発信されると、ISの残虐性に世界が震撼した。
ISの占領から2年以上が経過した2016年10月、ついにイラク政府と多国籍軍によるモスルの奪還作戦が開始された。この奪還作戦の間、私は2度、現地に派遣された。一度目は作戦初日、その様子がテレビで大々的に報道されているのを、埼玉県の実家で見ている時に「国境なき医師団(MSF)」から要請が入り、すぐに現地に向かった。
私を含め、世界各地から派遣されたメンバーで緊急医療チームが作られ、モスルのどこから市民が脱出してきても迅速に対応できるよう、戦況を読み取りながらまずは郊外に拠点を作ることから始めた。私は別の国への派遣が決まっていたため数週間しか滞在できない。砂漠の中に建てたテント病院内での手術室の立ち上げに携わり、実際に患者が収容され始めたところで後任の看護師と交代し、その時は一旦イラクを去った。
2度目の派遣は2017年6月、いよいよ奪還目前になったと世界の報道陣が騒ぎ始めていた時期だった。解放された地域が少しずつ増え、ISはモスル西側の一部地域に追い詰められていた。そこには未だにISに「人間の盾」として利用されている市民も存在していた。奪還作戦は空爆や、銃撃、砲撃による暴力的なものであったため、一般市民はISと多国籍軍の戦闘から逃げまどい、多くが犠牲になった。
このときは、モスル市内の東側、解放された地域にあるMSF病院に派遣され、多くの負傷者への対応に追われた。私はモスル到着当初、「この街の建物は水玉模様が多いのだなぁ」と思いながら車の中から街の様子を眺めていた。すぐにそれがおびただしい数の銃弾痕であると気づき、うっかり口にせずに良かったと思ったものだ。
ISが残した傷痕
解放された市民の中には、身体的には無傷だった人もたくさんいた。現に病院の外に出ると、今まで囚われの身となっていたであろう人々が自由に歩く姿を多く見かけたし、MSFが現地で雇用した医師や看護師たちはみな、やはりモスルでISに囚われていた身であった。しかし身体に傷がないとはいえ、いかに多くの人々がISの強硬支配による恐怖を経験し、精神的な傷を負っているかは、実際に話を聞いてみれば明らかだった。
MSFの病院で働いていたスタッフの1人、20代の男性看護師がIS支配時代の体験を話してくれた。彼はもともとモスルの大きな小児科専門病院で働いていた。その病院もISの支配下に置かれると、出勤を許されるのは男性のみで女性の姿は消えたそうだ。男性は全員長い髭を生やすことを強制され、医療の知識もない支配者が下す命令以外の行為は許されなかった。命令のある日にのみ出勤し、出勤しないでいると逃亡を図った疑いで家に押しかけられるほどに監視が厳しかったそうだ。ちなみにその病院は、奪還作戦の空爆で破壊されたと彼は話した。
また別の女性スタッフは、ISがやってきてからの3年間ずっと家に閉じこもっていたが、ある日父に代わってどうしても外出しなくてはならない用事があり、ISの規定通りアバヤ(黒いマントのようなもの)を着て、頭は黒いスカーフ、顔はニカーブ(黒い覆い)で隠した。にもかかわらず彼女はISに捕まり、危うく鞭打ちされかけた。手の甲がアバヤから覗いていたからだという。
モスルを逃れ、避難する市民(2017年2月)
奪還と祝福、そして戦後
7月に入り、スマートフォンやテレビの向こう側で報道陣が奪還を待ち構えて騒ぐなか、病院には自力で歩けない人々が続々と収容され始めた。彼らは怪我をしてから長い時間が経過していて、非常に体力が落ちていた。中には骨折したままの状態で腕が固まってしまっている人もいた。みな蒼白でやせ細り、明らかに栄養失調を併発しているので、治療が難航するのは確実だった。このような人々が運ばれてくるということは、モスルのかなり奥まで脱出経路が確保できた証拠なのだろうか。奪還は本当に間近なのかも知れないと、私は感じ始めた。
そんな中、7月9日についに、アバディ首相による奪還宣言が出された。その瞬間を待っていた世界中のメディアがそれぞれに「モスルの完全解放」を報じ、モスルは世界中から祝福された。その様子はまるでお祭り騒ぎだった。一方、政治声明上では戦争は終わったものの、私たちの病院は忙しかった。市民に紛れたISによると思われる自爆テロがあちこちで頻発するようになり、その被害者を収容し始めた。周囲ではISの残党を捕まえるため警察が忙しく活動し、その余波で市民が冤罪で捕まるケースなども多く発生していたようだ。