ムスリム女性のおしゃれ事情
埼玉の実家の自室。クローゼットを覗き、どのスカートを履いていこうかと迷う。私はどんな洋服を持っていたんだっけ。数カ月に及ぶ海外派遣から帰国した後は、空港から都内のマンションではなく実家に直接戻り、そこでしばらく過ごすことが多い。このときは4回目のイエメン派遣から戻ってきたばかりだった。2017年3月のある日。まだまだ風が冷たい。陽が沈めばもっと冷えるだろう。それでもその日はロングではなく、ミニスカートを履くと決めていた。今日これから会う人は、私がおしゃれをしたい相手、ちょっと特別な人だから。
紛争地で活動している私だって、恋愛を楽しみたいしおしゃれはしたい。なにも人道支援に人生のすべてを懸けているわけではないし、髪や服を振り乱して活動しているわけでもない。現地でも肌には気を遣い、帰国したら真っ先に美容院に飛び込む。日本に住んでいる女性であれば、肌や髪を大切にしたいというのは誰でもごくごく普通に身についている感覚ではないだろうか。
では、紛争地で暮らす女性たちはどうなのだろう? 私は今まで何度もムスリムの女性たちの生活に溶け込み、ベールやマントで顔や体を隠す彼女たちと接してきた。そこで垣間見た女性のおしゃれ事情は、規則や風習によって抑え込まれてしまうようなものではない。彼女たちこそ、おしゃれに気を抜くことのない女性たちだった。時に度肝を抜かれるような大胆さもまざった、果てしなく広がるおしゃれの世界。それが彼女たちを覆う衣服の向こう側にあったのだ。
2012年、シリアで
イエメン女性は「アバヤ」とスカーフ
イスラム教の文化圏では、宗教上の教えや地域の風習によって、女性は体形や肌、髪を、公共の場、もしくは家族以外の男性の前では隠すという伝統や習慣がある。イエメンでは衣服はアバヤと呼ばれる黒いマントのような上着で、顔以外、手首も首筋も、裾はくるぶしまでを覆って全ての肌と胸やお尻などの凹凸を隠す。髪は、都市部ではスカーフで覆う姿をよく見かけた(北部の山岳地域では、後述する「ニカーブ」や「ブルカ」で顔まで隠すタイプが主流だった)。少なくともイエメンでは、公共の場で女性が素足の見えるスカートや、体形が分かるジーンズを履いている姿を見ることはなかった。
派遣先では、私たち外国人であっても、お邪魔させてもらっている身としては、風習やしきたりに合わせた身なりをすることが礼儀であり、その土地の人々に馴染む手段でもある。
私はイエメン派遣自体が2017年の時点ですでに4度目であったし、イエメン以外にも同じような風習のある国や地域に何度も派遣されていた。そのため、私はすっかりこの風習に慣れ、あたかもその土地で生きている女性のような感覚で、アバヤもスカーフも生活の一部として身につけていた。初めて身につけたときも、新しいものに挑戦することが好きなので抵抗はなく、むしろワクワクしていた。スカーフについては、いざ被ってみると下を向く度に形が崩れてはだけてしまったりして、特に仕事中には邪魔だと思うことがあった。しかしピンを使い、動いても崩れない止め方さえ覚えてしまえば、全く問題なくすんなりと習慣化した。
イエメン女性が着る服はアバヤのみ、というと、とても窮屈そうに思えるかもしれない。しかし、彼女たちと親しくなれば、少し違う世界が見えてくる。
最初のうちは、すべて同じに見えていた黒い生地のマントのようなアバヤには、よく見るとそれぞれ袖や裾、襟元に異なるデザインが隠れている。ビーズや刺繍、キラキラ光るスパンコールなど、色が派手なものが使われていることもある。イエメンの女性はアバヤを選ぶときにこのデザインを熟考し、人とは違うアバヤで個性を競うのだ。これは現地の女性にしか分からない、ファッションの喜びであり、楽しみ方なのである。
イエメンのアバヤ専門店で、ずらりと並ぶ商品。袖や襟の刺繍が黒に映える
それに何といっても頭に被るスカーフのバリエーションは無限だ。デザインも色も生地の種類も多様で、巻き方にも色々なスタイルやテクニックがある。イエメン女性が毎朝どのスカーフを選び、どんな巻き方でその日を過ごすのかを決める姿は、日本の女性が毎朝その日の髪型を考えている感覚となんら変わりないのだろう。
そのうえ、彼女たちはアバヤの内側でも気を抜くことはないのだった。私などは、「どうせ隠れてしまって誰にも見られないのだし、毎日の服装を考えなくていいから楽だ」と、割とズボラな格好をしてしまっていた。しかし、現地の女性にはそんな考えはない。アバヤを脱いだ彼女たちの姿は、そのまま東京の街を歩いてもおかしくないような素敵な格好だったりする。アバヤの内側に限っては、ミニスカートや可愛いタンクトップが存在するし、恰好いいジーンズにTシャツなども珍しくはなかった。
究極のおしゃれ!
おしゃれの感覚については、心から驚かされた経験もある。
2013年、シリア。3年目に入った内戦はなかなかおさまらず、私たちは複数の激戦地から運ばれてくる市民への緊急医療対応のために派遣されていた。必死の救命活動に追われる日々だったがそんな中、ある一つのニュースが病院スタッフ一同の心を温めた。
現地スタッフに、リアムという19歳の女の子がいた。彼女は高校を卒業していなかった。当時、多くの地域において学校という学校は、前線から逃れてくる市民のための施設として使われていたため、学業の途中にもかかわらず学校に通えなくなってしまった学生はたくさんいた。近所で医療活動を始めた「国境なき医師団(MSF)」のことを知った彼女は、看護助手という役割で働き始め、患者の身の回りの世話や、カルテの整理など献身的に動いてくれた。絶対的な人手不足の中、彼女の存在は大きかった。
同時期に、医療以外のインフラなどを担当するロジスティックの人員として、ナセルという青年が雇われていた。リアムよりもいくつか年上だった。病院の中や外で資材を担いでいる姿や、工具を持って電気関係、水回りの仕事をやっている彼の姿を思い出す。