「国境なき医師団(MSF)」の活動に参加すると、たくさんの出会いがある。世界中から集まる海外派遣スタッフと、現地で出会う人々。活動の一つ一つを思い出すと、あの人も、この人も、といろんな顔が浮かぶ。その時その時、現地で出会った瞬間にチームメンバーとなり、人道援助のため一丸となって医療活動を行う。まさに一期一会。9年間、17回の派遣で私は本当に素敵な出会いを重ねてきた。
とりわけ、私のMSFでの人生は、ある医師をなくしては語れない。一緒に働いたのはイエメンでのたった1回であるが、気づくと彼は、私の影となり支えてくれる存在となっていた。MSFの活動はやりがいもあり、喜びや充実感も得られる。しかし、つらいことや悲しいこと、そして悔しいこと、ジレンマなどに耐えられず、前に進めなくなってしまいそうな時もある。もちろんそれは覚悟していたし、任務の途中に弱音を吐くような人間はそもそも現場に来てはいけないと思っていた。今でも心のどこかにはそのような思いがある。現場ではいつも気丈に、と心がけている私の、弱い部分を敢えて引き出し、それを受け止めてくれるのが田辺康先生だ。
イエメンの同僚たちと。左から2番目が田辺先生
派遣先で会った日本人医師
出会いは2012年7月。私の3回目の派遣先、イエメンのアデンという場所である。MSFはここに大きな外科プロジェクトを展開している。アデンは当時も2020年の現在も、紛争の犠牲者が絶えない。
私はアデンに行くまで、本当の紛争下での戦傷外科を経験したことがなかった。日本では消化器外科専門の病院で働いていたため、同じ外科といえども、それはほぼスケジュールにそって行う開腹手術だった。MSFに参加して初めて派遣された2010年のスリランカでは、情勢こそ不安定ではあったが、内戦は実際には終わっていた。2回目に派遣された2011年のパキスタンも、油断できない情勢ではあったとはいえ、私が参加したのは外科ではなく、様々な理由で病院に行けない妊婦を対象にした産科プロジェクトだった。そのため、勤務していた病院では戦闘による犠牲者が運び込まれてくることはなかったのだ。
イエメンが紛争下にあるということは派遣を引き受ける時点で分かっていたが、いったいどんな患者に接することになるのだろうと私は気を張っていた。病院に到着後すぐにオペ室へ向かうと、何人かのイエメン人スタッフ、ヨーロッパから派遣されてきた麻酔科医師と、麻酔専門看護師、そして外科医として日本から派遣されていた田辺先生がいた。それぞれ英語で歓迎を受ける中、田辺先生は「やあやあ」と日本語で声をかけてきた。「日本人のナースが来るって聞いて楽しみにしていたよ。僕は英語が苦手だから、通訳をしてくれる人が来て嬉しいなぁ」と冗談を交えた挨拶で、温和な話し方に安心感を覚えた。
田辺先生は中肉中背で、当時の年齢は50歳代半ばだった。北海道の病院に常勤で所属しながら、特別休暇をもらってたびたびMSFの活動に参加しているという。MSFへは私と同じ2010年から参加していて、派遣回数も同じ3回目。実は私も日本人の外科医が働いていると聞いていたので、会うのを楽しみにしていた。現在は日本人スタッフも増えてきたが、当時は自分が派遣されたチームに日本人がいるのはとても珍しく、ラッキーなことだった。仕事内容が変わるわけではないが、母国から来た人が国際チームの中に存在するというだけで安心感が生じる。
ベテラン戦傷外科医の教え
アデン病院の手術室は昼も夜も本当に忙しかった。拙書『紛争地の看護師』(小学館)の中の、ある夜に子どもが8人運ばれてきて、全員の手や足の切断手術を行ったというエピソードはこの地で起こったことである。アデンでは昼間は空爆による地響きや銃撃の音が鳴りやまず、教育システムも崩壊してしまっていたため、子どもは家の中にいるしかない。ただし、日が沈み戦闘が鎮まると、彼らはようやく外に出て遊ぶのだ。この夜も子どもたちが道端で見つけた面白そうな“物体”を蹴ったり転がしたりして遊んでいると、それが突然爆発し、全員の手や足を吹き飛ばしてしまった。物体は時限爆弾だったのだ。
私たちの病院にはこのような子どもたちも含め、一般市民も、兵士も、老若男女を問わず、とにかく銃撃か爆弾、空爆などによる被害に遭って運ばれてきていた。アデンはこんな情勢だった。
到着当初、私は武力によって傷を負った患者をどのように扱い、準備や手術を進めていくのか想像もできず、看護師長という身分で来たにもかかわらずドキドキしていた。そこを救ってくれたのが田辺先生だった。彼は日本でもずっと救急室や手術室で外傷を扱ってきた“プロ”で、MSF医師としても初回の派遣の時から紛争地で外傷治療に携わってきたベテラン。私に対してMSFでできる戦傷外科の基本をとても丁寧に叩き込んでくれた。まず外傷は感染症のリスクがあるため、銃弾だろうと空爆による爆傷だろうと、とにかく洗浄を繰り返すという基本中の基本。また銃弾による傷は、たとえ見た目は小さくても、体内で銃弾が縦回転に変化していたり、らせん状に進んでいたりする場合もあり、体内では重篤な損傷を負っている可能性があることなども教えてくれた。また、体内に残った銃弾を無理に摘出することで、かえって大事な血管を傷つけるリスクがあるならば、そのまま残しておくほうがよい場合もあることなども。これらの教えを、私はその後、世界各地の紛争地医療で生かしていくことになる。
イエメンで戦傷外科の基礎を教わった
緊急時こそ穏やかに
医療技術以外の面でも、先生から学ぶことは多かった。彼はどんなに緊急の場面でも興奮や緊張によって声を荒らげたり、周りのスタッフを無下に扱ったりするようなことを一切しなかった。ここには手足が原形をとどめていないような、見るも無残な姿の患者が次々と運び込まれてくる。先生は、口では「うわぁ、これはひどいなぁ」と言いながらも、手術方法を頭の中で組み立て、それを的確に看護師たちに伝えてくれていた。
夜中に患者が来た時も同じだ。、夜勤の救急スタッフが、まずは田辺先生を呼び出す。診察や検査の結果、手術が必要だと判断した場合、先生から私に連絡がくることになっていた。「ゆうこりん、悪いねぇ。オペ室準備してくれるかな。