裁判長から殺人罪への無罪判決を言い渡された瞬間、目の前に座った両足義足の「ヒーロー」は拳を固く握りしめ、ブルブルと両肩をふるわせて泣いたように見えた。
2014年9月、南アフリカの首都プレトリアの高等裁判所で、殺人罪に問われた義足の短距離走者オスカー・ピストリウスに対する判決公判を傍聴した。恋人でモデルのリーバ・スティーンカンプ(当時29歳)を自宅の浴室で撃ち殺したという容疑に対し、裁判長は殺人罪の適用を見送り、過失致死罪を適用する判断を下した。世論的にはとても受け入れられそうもない、波乱含みの判決だった。
私が初めてピストリウスを知ったのは2012年8月、ロンドン五輪の生中継だった。カーボン繊維製のJ字形の義足を装着し、フィールドを飛ぶように走る「ブレードランナー」。逆風を追い風に変えながら、新しい地平を切り開こうとする青年の姿に世界中が熱狂し、私も彼の著作『オスカー・ピストリウス自伝/義足こそが僕の足』(白水社)を夢中になって読みふけった。
著作で語られる彼の人生は、目の前に次々と現れる「ハードル(障害)」との闘いだった。
1986年、両足共にひざから足首までの外側をつなぐ腓骨(ひこつ)がない子として生まれた彼は、生後11カ月でひざから下を切断し、わずか1歳で義足をつけて歩き始める。
母親は健常者である長男と分け隔てなく接することで、ピストリウスに「障害を障害と思わせない」よう育てた。
彼女は兄弟に向かって言い続ける。
「カール(兄)、靴を履きなさい。オスカー、義足をつけなさい」と。
そんな母親の影響が大きかったのだろう、ピストリウス自身もロンドン五輪に出場した2012年、メディアの前で「僕は障害があると思ったことはありません」と自らの幼少期を振り返っている。
義足の少年はその後も「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」(長く曲がりくねった道)を歩き続けた。6歳の時に両親が離婚。彼は母の擁護のもと、ラグビーや水球、テニスなどを愛するスポーツ少年に育ったが、15歳の時、その最愛の母が他界してしまう。
彼の人生を変えたのは、ある「アクシデント」だった。17歳の時、ラグビーで右ひざを痛めたことをきっかけに陸上競技へと転向すると、わずか8カ月後のアテネ・パラリンピック(陸上男子200メートル)に出場して金メダルを獲得してしまう。
思わぬ快挙は、彼に新たな「夢」を与えた。
障害者が競うパラリンピックではなく、健常者が競い合うオリンピックに出場したい――。
2007年、南アフリカ選手権に出場し、陸上男子400メートルで2位という成果を収めた彼は、同年の国際陸連ゴールデンリーグ・ローマ大会では北京五輪の参加標準記録にあと0秒95と迫る好タイムをたたき出し、「夢」へと大きく前進していく。
しかしそこでもまた、彼の前に予期せぬ「ハードル」が立ちはだかる。国際陸連は「競技力向上のための人工装置の使用を禁止する」という規則に彼の義足が抵触するとして、ピストリウスの五輪への出場を禁止してしまうのだ。
彼は国際陸連の決定にうちひしがれながらも、それを不服としてスポーツ仲裁裁判所に提訴した。裁判所の判断は「義足で受ける利益は十分に証明できない」。彼は自らの力で、五輪出場への道を切りひらいたのだ。
2012年、ロンドン五輪の陸上男子400メートル。史上初めて8万人の大観衆の前に立った義足のランナーは予選を2位で見事通過し、準決勝では2組8着という好成績を残した。
障害を克服して風のように走る「ブレードランナー」の登場に、世界中から惜しみない拍手が送られた。
でもその陰で、あるいは彼の人生はどこかで歯車が狂い始めていたのかもしれない。
直後に開催されたロンドン・パラリンピックの陸上男子200メートル。彼はスタート直後からずっと1位をキープしながらも、残り20メートルでブラジルの選手に追い抜かれ、100分の7秒差で金メダルを逃してしまう。
競技の終了後、彼は報道陣にこう言い放った。
「あいつの義足は長すぎる」
優勝したブラジルの選手は足の残存部分がピストリウスよりも短かったため、彼より長い義足の使用が許可されていた。彼はそれを承知で、健常者たちから常に指摘されてきた「義足は健常者の足より有利なのではないか」という「疑念」を持ち出し、競技の「公平性」に激しく疑義を呈したのだ。
彼は帰国後、南アフリカの国民に「逆境を乗り越えた英雄」として熱狂的に迎えられる一方で、徐々に人生の軸を失い、次第に輝きを失っていく。彼の内面に一体何が起きたのか、様々な報道がなされているが、真実は誰にもわからない。周囲に対して傍若無人になり、ささいなことで怒り始める。「まるでモンスターのようになってしまった」と多くの親友が当時の彼を振り返っている。
事件が起きた2月14日はバレンタインデーで、恋人のリーバはその日、南アフリカの高校でレイプ撲滅運動のスピーチをする予定になっていた。未明の発砲後、現場に駆け付けた警察官は米誌「Vanity Fair」上で次のように詳述している。
「玄関を入るとリーバの遺体があった。腕と耳の上、腰の計3カ所を撃たれていた。大理石の階段を上ると寝室と続きになった浴室があり、ドアはクリケット用のバットでたたき壊されていた。血まみれのバットが床に転がっており、近くに二つの携帯電話と9ミリ弾の拳銃が置かれていた」
逮捕されたピストリウスは警察の調べに対し、次のように釈明した。
「強盗と間違えて撃った。彼女を殺すつもりはなかった」
現場の状況を見る限り、それらの言い分がどう考えても受け入れられないものであることを、当然彼も知っていながら。
閉廷の瞬間、硬い木製の被告人席に座った彼は「ウッ」と短いうめき声のようなものを漏らしただけで、一度も傍聴席を振り返らなかった。
彼のふるえる肩を背後で見ながら、私は胸が締め付けられるような痛みを感じ、彼の27年間の人生は果たして幸せだったのだろうか、と心の中で夢想した。
同時にこうも思った。
彼の人生はこれで終わったのだろうか、それとも罪を償い、真の自分に向き合うという、新たな人生が始まったのだろうか、と。
(2014年9月)