2015年1月、テロリズムの現実を伝えようとシリアに潜入していた日本人ジャーナリストがイスラム国(IS)に捕らえられ、殺害された。そのあまりに衝撃的な殺害時の映像は、インターネットを通じて全世界に配信され、日本人の心に深い悲しみとそれをはるかに上回る恐怖の感情を植え付けた。
それは中東におけるテロリズムの当事者性をずっと回避し続けてきた日本人にとって、そこで起きているすべての悲劇に我々は決して無関係ではいられないのだと思い知らされた、おそらく初めての出来事であったように思う。
事件中、私はヨルダンの首都アンマンにいた。ISが「日本人ジャーナリストを捕らえた」と主張し、その映像をインターネットで配信したため、アンマンにある日本大使館には急遽、現地対策本部が設置されていた。私は同僚2人と現地に入り、同僚2人が日本とヨルダン両政府の動きを追うというので、私はヨルダンで暮らす一般市民の取材を担うことになった。
ISは日本人ジャーナリストの他にも、戦闘機で飛行中にシリア国内に撃墜された26歳のヨルダン軍パイロットを人質として捕らえていた。IS側はそのヨルダン人パイロットを釈放する条件として、ヨルダン政府に捕らえられているIS側の死刑囚の解放を求めていた。
アンマンの広場に出向くと、集まっていた市民の多くが「IS側の要求を受け入れ、ヨルダン人パイロットと死刑囚を交換すべきだ」と訴えていた。日本のメディアでは盛んに「ヨルダン市民は『日本人ジャーナリストも一緒に交換すべきだ』と叫んでいる」と報じられていたが、そういった声は皆無ではないものの、現場で取材した限りでは、決して多くは聞かれなかった。日本のメディアが日本の視聴者に「忖度」して作った「フェイク・ニュース」。残念ながら、日本の「国際ニュース」では往々にしてそういうことが起こる。
当時のヨルダン市民の感情については少し説明が必要かもしれない。
日本とヨルダンはとても似ている。歴史的にアメリカに近く、絶えずアメリカの強い影響を受けている。ただ、ヨルダンは地政学的にシリアやイラクと隣接しているため、市民はアメリカが始めた戦争に自国が巻き込まれることを恐れている。だから、アメリカがシリアを攻撃するために「有志連合」への参加を呼びかけ、ヨルダン政府が国民の声を押し切って「参戦」を決めたとき、市民は政府の動きに強く反発した。その結果として、戦闘機が撃墜され、ヨルダン人パイロットがISの人質になったため、ヨルダン市民は「これは政府の決定が導いた惨事だ」として、パイロットを無事に生還させるよう政府に強く要求していたのだ。
事態が動いたのは、1月27日だった。ISは捕らえられた日本人ジャーナリストの映像をユーチューブに投稿し、その中でジャーナリストに「私の解放を妨げているのはヨルダン政府が死刑囚の引き渡しを遅らせているからだ」「私が生きるために残された時間は24時間しかない」と語らせることで、事実上の最後通告を日本とヨルダンの両政府に突きつけていた。
ヨルダン政府はすぐさま緊急記者会見を開いた。しかし、政府の担当相は「ISはまずヨルダン人パイロットが生存していることを示せ」「ISが解放を求める死刑囚はヨルダンにいる」と繰り返すだけで、ヨルダン政府が交渉のカードを何も持ち得ていないことをさらけ出すだけのような会見になってしまっていた。
政府の対応に業を煮やしたヨルダン人パイロットの父親は日没後、市内の集会場で自ら記者会見を開いた。カメラの前で「息子の安否だけでも教えてほしい」「政府はなんとしても息子を生きたまま取り戻してほしい」と懇願し、集会場の外では同郷の若者たちが政府に非難の声を上げていた。
翌日、IS側は猶予時間をさらに24時間延長した。
私はパイロットの父親が待機する市内の集会場に張り付きながら、数百人の市民と共に事件の進展を見守った。パイロットの故郷であるヨルダン中部のカラクでは、故郷の若者の救出を求める市民の一部が暴徒化し、警察車両に向かって投石を始めていた。町のあちこちで炎が上がり、治安部隊が催涙弾で市民の鎮圧に乗り出していた。
そして、そこにあの日本人ジャーナリストのおぞましい斬首映像が流れた。集会場の周囲からいくつもの悲鳴が上がり、それらはやがて絶叫へと変わっていった。
私はすぐさま現地対策本部が設置されている日本大使館へと向かった。
気温摂氏零度。大使館前にはすでに多くの日本メディアが群がっていた。午前4時半に一度、大使館前で記者会見が設定されたが、それはなかなか開かれず、実際に日本の外務副大臣が大使館前に現れたのは午前7時半過ぎだった。
外務副大臣は苦悶の表情で拳を堅く握りしめたまま、肝心なことは何一つ発しない。取り巻く海外メディアが「日本政府はイスラム国と交渉できていたのですか?」と何度質問を向けても、彼は事実をはぐらかし、追加の質問を無視してその場を立ち去った。
最悪の対応だ、とその状況を見て私は思った。質問を冷酷に無視することが、無言の回答になってしまっている。「日本政府はISと何一つ交渉できなかった」と海外メディアは日本の外務副大臣の映像付きで世界に報じるに違いなかった。
日本政府はISと何も交渉できなかったのか――。
私はその後も現地に残り、現地助手の力を借りて独自に日本人ジャーナリストの解放交渉の内側に迫ることにした。
現地助手がヨルダンの外交トップの外交委員長と旧知だというので、議員会館に潜り込み、彼の部屋の前で数時間張り込んだ。彼が外出するタイミングを狙って扉を押さえ、「10分だけ」と懇願して2人で部屋に押し入った。外交委員長は「また貴方か」と言って現地助手を軽くにらみつけ、それでも約30分間、我々の取材に応じてくれた。
「日本はこの期間、IS側とどのような交渉を続けていたのでしょうか?」
私が質問すると、外交委員長は「我々はISと非常に複雑な交渉を続けた」と、主語を「日本」ではなく、「我々」と言い換えてその内実を説明した。
「相手はテロリストだ。だからヨルダンと日本は一つのグループになり、第三者を通じて交渉を続けた」
「日本についてはいかがですか?」と私は聞いた。「我々とはつまり、ヨルダン政府のことなのではないですか?」
外交委員長が沈黙したので、私はさらに質問を重ねた。
「日本はIS側と交渉できていたのでしょうか?」
「いや」と外交委員長は言った。「私の知る限り、日本とISの直接交渉はなかった。でも、それは仕方のないことだ……」
「仕方のないこと?」