ヨーロッパでは第二次大戦後、将来ヨーロッパ諸国間の戦争を2度と繰り返さないために、政治的に経済統合が進められてきた。1952年7月の「欧州石炭鉄鋼共同体」(ECSC European Coal and Steel Community)の創設を経て、57年3月には「ローマ条約」が調印され58年1月には西ドイツ、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの6カ国からなる「欧州経済共同体」(EEC European Economic Community)が発足した。60年代には共同体の経済統合が急速に進展し、67年7月には欧州共同体(EC European Community)と改称された。さらに68年7月には目標より18カ月早く、「関税同盟」(customs union 域内関税の撤廃と共通関税の設定)が成立した。しかし60年代末には、ドルを中心とした固定相場制が不安定になったため、欧州が一つの安定した通貨圏を作ることが欧州サミットで提案された。これに基づき70年10月には「ウエルナー・レポート」が提出され、中央銀行の統合と単一通貨の導入からなる、「経済通貨統合」(Economic Monetary Union →「欧州経済通貨統合」)が提案され、10年後の実現が目標とされたが、その後の経済混乱から事実上棚上げとなった。
71年8月にはドルの金との交換性が停止され(いわゆる「ニクソン・ショック」)、12月には各国通貨の対ドル変動幅が従来の上下0.75%から2.25%に拡大された。この結果、ヨーロッパ通貨相互間では最大限4.5%の2倍(相互に最も弱い通貨から最も強い通貨に変化した場合)の9%の変動が発生しうるようになったため、ヨーロッパ諸国には過大な通貨変動であると考えられた。このため、72年4月にはヨーロッパ6カ国の相互間の為替レートの変動幅をこの半分に抑えることが合意され、「トンネルの中のスネーク」とよばれた。73年3月には米ドルが変動相場に移行したため、ドルに対する「トンネル」は無くなったが、「スネーク」自体は参加国の脱落や再加入、中心レートの変更があったものの継続された。
78年には、フランスと西ドイツが「通貨安定圏」構想を発表し、79年3月に欧州通貨制度(EMS European Monetary System)が創設された。EMSはスネークを発展させた制度であり、加盟国間の介入資金の相互融通制度の拡充、各国通貨相互間の基準相場のベースになるECU(European Currency Unitの略で、加盟国通貨のバスケットで定義される計算単位)の導入が行われ、またECの大部分の国は、為替レートの変動を介入により安定させる制度である為替相場メカニズム(ERM Exchange Rate Mechanism)に参加し、原則として相互間の為替レートをスネークと同じ2.25%の変動幅に抑えた(一部の国は6%)。EMSは当初、中心レートの変更がたびたび行われ不安定であったが、徐々に安定度を増していった。こうした中で、89年4月にはEMUに向けての「ドロール・レポート」が提出され、通貨統合に向けての3段階の移行プランが示された。91年12月にはこの通貨統合の考え方を反映したローマ条約の改正である「マーストリヒト条約」(Maastricht Treaty)が調印され、93年11月に発効した。またこの条約でECはEU(European Union)と改称された。しかし90年の東西ドイツの統合とそれにともなうドイツ経済の過熱から、92年以降ERMは混乱し、為替相場の変動幅も2.25%から15%に拡大された。