2006年10月9日、北朝鮮は核実験の成功を公表、各国も小規模な核爆発が行われたと認めた。同年7月5日のミサイル連射に続く軍事的示威であり、当初、それまで北朝鮮に宥和(ゆうわ)的だった中ロ韓を含めて、国際社会は強く反発した。とくに9月に発足した日本の安倍政権(当時)は、北朝鮮に強い姿勢で臨む構えを見せ、アメリカと連携して国連安全保障理事会(安保理)で制裁決議採択に尽力し、10月15日には経済制裁を含んだ決議1718が全会一致で採択された。しかしその後、中国を中心に6者協議再開の調整がなされ、また11月のアメリカ中間選挙で、ブッシュ政権(当時)のイラク政策への批判が主因で共和党が大敗すると、流れが変わりはじめた。07年1月、米朝がベルリンで協議し、アメリカが北朝鮮の預金封鎖を解除する代わりに、北朝鮮は朝鮮半島の非核化を確認した05年9月の共同声明の履行に踏み出す意向を示した。2月の6者協議では、共同声明実現のための「当初措置」が合意され、第1段階として寧辺(ニョンビョン)の核施設の封印、第2段階として北朝鮮によるすべての核計画の申告と核施設の無能力化が合意され、それぞれの履行と並行して、他の5カ国によるエネルギーなどの支援や、5つの作業部会の設置などがなされることになった。アメリカ政府の不手際で預金封鎖解除には時間がかかったが、4月には実行され、5月には「当初措置」の第1段階が実現した。「当初措置」には「無能力化」の定義、アメリカの指摘する濃縮ウラン計画や核兵器の扱いなどを巡り曖昧(あいまい)さが残るが、アメリカによるテロ支援国家指定解除や和平協定を巡り、米朝主導で協議が進められた。日本は核と並んで拉致問題の進展を北朝鮮支援の条件としており、他の4カ国と距離を置く形になった。