東アジアでは伝統的に公的な地域主義への取り組みは鈍かったが、冷戦終焉(しゅうえん)後、地域主義の世界的流行も追い風となって、議論が活発化した。1990年代初頭マハティール・マレーシア首相がASEAN諸国と日中韓からなる東アジア経済協議体(EAEC)を提唱したが、アメリカなどの反対で挫折した。しかし97年に東アジアを経済危機が襲った後、ASEAN諸国と日中韓の首脳会合が開催され、ASEAN+3の枠組みとして貿易、金融、エネルギーなど様々な分野で協力が制度化されはじめた。中国がASEAN諸国との自由貿易協定を提唱するなど、地域主義への傾斜を強めたことで日本も積極的になり、2002年1月小泉首相(当時)はシンガポールで東アジア共同体の構築を提言した。しかし日中関係の悪化に伴い、ASEAN+3を基軸としたい中国とその他の諸国も加えたい日本の間で競合が生じた。05年のASEAN首脳会議では東アジア共同体の構築に向けてASEAN+3が主要な手段となることがうたわれるとともに、ASEAN+3にインド、オーストラリア、ニュージーランドを加えた東アジア・サミット(EAS) も創設されて共同体形成に重要な役割を果たすとされ、ともにASEANが主導するという、日中にとっては痛み分けのような結果となった。