2006年10月の北朝鮮による核実験公表後、アメリカは北朝鮮との対話へと舵(かじ)を切り、中韓日ロを加えた6者協議において、07年2月13日、朝鮮半島非核化を確認した05年9月共同声明実現のための「当初措置」が合意された。具体的には第1段階として寧辺(ニョンビョン)の核施設の封印、第2段階として北朝鮮によるすべての核計画の申告と核施設の無能力化が行われ、北朝鮮へのエネルギー支援などの見返りがなされるというものであった。07年5月には第1段階が実現したが、第2段階については当初予定されていた07年内に実現しなかった。そこには北朝鮮への対応を巡り、部分的にでも合意を進めようとするヒル国務次官補やライス国務長官(ともに当時)らとそれに反対する立場との間で核技術移転疑惑や濃縮ウラン計画の取り扱いについての論争があったと思われるが、結局08年6月には北朝鮮がプルトニウム抽出について申告し、アメリカは北朝鮮が長年求めてきたテロ支援国指定を解除する方針を表明し、交渉優先派が優位に立ったように見えた。しかしその後も核申告の検証問題で対立が残り、当初の予定日とされた8月11日にはテロ支援国指定は解除されず、反発した北朝鮮は核施設の無能力化中止を表明した。ついに10月11日アメリカはテロ支援国指定の即時解除を表明したが、12月の6者協議でも検証問題で一致しなかった。この間、金正日総書記の健康問題の浮上、アメリカの政権交代などの事態が起きた他、北朝鮮による韓国批判や、アメリカによるテロ支援国指定を拉致被害者救済のための圧力手段と見なしてきた日本でのアメリカへの不信感の広がりなど、北朝鮮核問題を巡る情勢は改めて不透明となっている。