1993年3月、国際原子力機関(IAEA)の特別査察に抵抗するかたちで北朝鮮が核不拡散条約(NPT)からの脱退を宣言して以降、約1年半の間、米朝高官協議が断続的に行われた期間を第1次核危機と呼ぶ。この間、アメリカでは北朝鮮の核施設への爆撃も議論されたが、結局、米朝第3ラウンド協議(第2セッション)で米朝枠組み合意(94年10月21日)が署名されることで、いったんは外交的な解決をみた。ここで北朝鮮は、黒鉛型減速炉と関連施設を凍結し、後に朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO ; Korean Peninsula Energy Development Organization)として発足する(95年3月)国際事業体が軽水炉主要部分を搬入することと引き換えに、それらの施設を最終的に解体することを約束した。さらにここでは、アメリカの対北朝鮮経済制裁の解除、連絡事務所の相互設置を経て、大使級の関係樹立に至る段階的な米朝関係の改善も明記された。これに対して第2次核危機は、ブッシュ政権発足後の2002年10月にケリー国務次官補が訪朝した際、北朝鮮が高濃縮ウラン(HEU)による核開発計画に着手していることを認めたことに端を発する。北朝鮮は1997年ころからミサイル技術をパキスタンに供与する代わりに、ウラン濃縮技術を入手したものと考えられる。これにより「米朝枠組み合意」は機能不全に陥り、2002年11月にKEDOが重油提供の停止を決定すると、北朝鮮は凍結されていた核施設の再稼働を発表し、03年1月に再びNPTからの脱退を表明した。なお、KEDOの軽水炉事業は、03年11月に停止が決定され、06年5月の理事会で終了が正式に決定された。