ポスト毛沢東時代の総路線は工業・農業・国防・科学技術の「四つの近代化」建設である。経済効率の重視、生産条件の優位を生かす比較優位政策(先富論)、農村の工業化(郷鎮企業建設)などは初期段階から共通して取り組まれた内容である。しかし、やがて改革開放の方法をめぐり、計画経済の枠組みを守りながら慎重に進めようとする陳雲ら保守派と、積極的に市場経済を導入しようとするトウ小平ら改革派の確執が生まれた。改革の行き詰まりの中で1987年に胡耀邦、89年の天安門事件で趙紫陽ら改革派指導者が失脚したが、トウは92年春節(旧正月)に高齢をおして深センなど開放都市を巡り、「改革開放を加速せよ、チャンスを逃すな」と全国に向けて檄を飛ばした(「南巡講話」)。この時、社会主義体制下でも積極的に市場化を進めることができると力説。この考え方は92年秋の第14回党大会「政治報告」で正式に採択され、以後共産党指導を堅持し社会主義を掲げながら、経済において市場化を積極的に取り入れる考え=社会主義市場経済が中国の基本方針になっていった。