1949年の中華人民共和国建国以後、民主化要求は事実上、共産党の一党支配への異議申し立てとして展開され、いずれも結果的に封じ込められてきた。古くは57年の百花斉放・百家争鳴運動で主張された「党天下論」などがあり、直後の反右派闘争で粛清された。66年から始まる文化大革命では、遇羅克の「出身論」など、紅衛兵の一部による出身血統論への批判があった。76年4月には、周恩来追悼を掲げた数十万人の民衆が天安門広場に集まって四人組を批判した第一次天安門事件が起こり、弾圧されたが、四人組失脚後には事件の名誉回復が行われた。78年から79年にかけては魏京生などによる北京の春と呼ばれる動きがあり、北京の西単の交差点に「民主の壁」と呼ばれた民主化を論議する多くの大字報(壁新聞)が張り出された。86年には政治体制改革の議論が起こり、それを積極的に推進しようとして失脚したのが胡耀邦党総書記で、89年に彼の死に端を発して、北京の学生を中心に広範な民主化要求運動が拡大。同年6月4日、武力弾圧された(第二次天安門事件。六・四事件とも)。事件以後、政治改革は停止され、経済成長優先の方針が定まった。しかし2007~08年以降、政治改革や民主主義についての論議が高まっており、胡・温政権に近い知識人などが漸進的な民主化の必要性を唱えるなどの動きがある。08年12月、第二次天安門事件にも参加した作家の劉暁波など303人の知識人が08憲章を発表。三権分立や言論の自由などを要求した。劉暁波は逮捕され、09年12月、国家政権転覆扇動罪で懲役11年の有罪判決を受けた。しかし彼の、一党独裁を批判し民主化を求める非暴力の抵抗は、国際社会に大きな反響を呼び起こし、10年10月ノーベル平和賞を受賞した。しかし中国当局は国際世論に対しても強硬姿勢を崩していない。11年春にはチュニジア、エジプト、リビア、さらにはシリアなど北アフリカ・中東で長期独裁政権に反対する民衆暴動が起こり、相次ぎ政権交代が実現した。この原動力がインターネットなどメディアを武器にした民衆・市民の新しい連携で「アラブの春」と呼ばれた。中国でも少し遅れて同様のスタイルで抗議行動が呼びかけられたが、当局の厳重な警戒態勢によって封じ込められた。しかしその後も、ネット民主と呼ばれるような新しい形態の「表現の自由」を求める行動は形を変えて浸透しており、当局の封じ込めとの「イタチごっこ」は収まってはいない。