中国重慶市の副市長で公安系を握っていた王立軍が2012年2月に成都市のアメリカ領事館に駆け込み、亡命を申請し、2日後に説得により国家安全部に保護された事件。これにより、党中央政治局委員兼重慶のトップで中国共産党第18回全国代表大会での政治局常務委員の有力候補であった薄熙来が失脚した。薄熙来が重慶市に赴任したのは07年であった。重慶市は、1997年に「西部開発の拠点」とするため4番目の直轄市に格上げされたが、薄熙来が赴任するまでの10年間は外資投資が進展しなかった。しかし2008年には外資投資額は27億ドル(前年比170%増)、09年には39億ドルを達成、薄熙来は重慶の超高度経済成長を実現し、庶民に経済発展を実感させた。さらに、「打黒」と呼ばれる暴力団追放のキャンペーンを実施、抵抗勢力を一掃し、さらには貧富の差の拡大に不満を抱く一般庶民に対してたくさんの安い公共住宅を建設・提供し、貧富の差がなかった毛沢東時代への回帰を訴え、心をつかんでいった。そして、12年11月の党大会で最高指導部入りを実現し、公安系統括の役職を狙い、習近平や共青団系のライバルと対抗する構想を進めていたといわれる。これに対して、3月14日、全国人民代表大会閉幕後の記者会見で温家宝首相が、「文革のような政治混乱」の危険性を強く警告し、政治改革の必要性について熱く語り、重慶事件を中央政府は非常に重視していると発言した。その翌日、党中央組織部は、王立軍のアメリカ総領事館駆け込み事件の責任により薄熙来の重慶市党委書記職解任を決定した。4月10日、イギリス人ヘイウッド殺害事件(11年11月)で、薄熙来の妻である谷開来がその容疑者であることが公表された。その後、党中央は、薄熙来に重大な規律違反があったとして中央政治局委員・中央委員の職務を停止し、党中央規律検査委員会に審査をゆだねた。そして9月28日、党中央は中央規律検査委員会の調査結果を受け、薄熙来を党より除名、公職より追放し、刑事訴追することを決定。さらに10月26日、全人代は薄熙来の代表資格の取り消しを決定し、薄熙来はすべての公職から追放され一件落着となった。重慶事件はしたがって「薄熙来失脚事件」と呼ばれる党中央での権力闘争でもあった。