ベトナム戦争が終了した1970年代後半に、インドシナ難民がボートピープルとして庇護を求めてオーストラリア大陸北部に大量に上陸した。インドシナ半島からのボートピープルが80年代前半に減少すると、90年代半ばより今度はアフガニスタンからの難民がボートピープルとしてやってきた。これに対して当時のハワード保守政権は、海軍を利用してボートピープルの上陸を阻止し、オセアニア島しょ国(ナウルなど)に設置した収容施設に送り、強化された基準のもとで難民審査を行い、ボートピープルの受け入れを減らすことに「成功」した。しかし、「太平洋ソリューション」と呼ばれたこのやり方は、国際社会から批判された。その後、ラッド政権がボートピープルを国内施設に一度収容して審査する体制に戻したところ、アフガニスタン難民に加え、2009年10月ころから、内戦が終結したスリランカからもボートピープルが急増した。ギラード首相は10年7月に、東ティモールにいったん収容し、審査するという方針を打ち出したが、これは太平洋ソリューションの再来との批判を生み、東ティモール政府からも拒絶された。その後、ギラード首相は東南アジアでのボートピープル難民監視体制のための国際協力を提案したが、進展はない。ボートピープルの沈没事故も続発したため、ギラード政権は11年7月、収容したボートピープルをマレーシアに4年間にわたり年800人を限度に送還する代わりに、同期間に同国で難民認定を受けた難民を4000人ほど同国より受け入れるとした難民交換協定を締結した。本協定には人道上の問題が大きいとの観点から異議が申し立てられた。同年8月に連邦最高裁判所は国内移民法に照らして同協定は違反性が強いと判断し、送還中止命令を出した。そのため、ギラード連邦政府は12年8月に、パプアニューギニアのマヌス島の難民収容センターを再開するための協定を締結し、太平洋ソリューション類似の政策を復活させたが、両国内に異論と懸念が根強い。アボット政権は同政策の復活を唱えていたので現在も継続している。