最初の日系移民と言われる永野萬蔵が1877年にカナダへ到着した。その後、次第に日系移民の移住が本格化し、1889年にはバンクーバーに日本政府の領事館が設置されるほどにもなっていく。日系移民たちは当初、独身男性が中心であり、おもに漁業などで活躍していたが、その後は漁業以外にも活動の場を広げていった。他方、アジア系移民への反発もあり、日系移民の権利(選挙権など)を制限する動きがブリティッシュコロンビア(BC)州において展開された。中国系移民については人頭税を課すなどカナダ政府は厳しい制限をしたが、日系移民については日本政府が人数を自主的に制限するという対応(ルミュー協定と呼ばれる)を1908年に両国で結び、問題に対応した。その後、日系移民たちはカナダ社会へ溶け込むように努力を重ねていった。第一次世界大戦において、日系カナダ人による義勇兵がヨーロッパ戦線で活躍したのはその代表的な事例である。第二次世界大戦に入ると、日系カナダ人たちは敵性外国人として位置づけられ、連邦政府は彼らを強制収容した。BC州の内陸部に強制収容の施設が設けられ、日系人たちは一世だけにとどまらず、カナダ生まれの二世や三世たちも住まいを追われ、また住宅や財産を没収されるという悲劇も生まれた。戦争の末期(45年3月)にはカナダ政府は日系人たちに戦後、日本へ帰国するか、あるいはただちにロッキー山脈の東へ移動するか、という二つにひとつという選択を迫った。その結果、約7000人の日系人たちは戦後、日本に帰国している。80年代に入り、日系カナダ人たちは強制収容されたことや財産を没収されたことに対して補償を求める運動を本格的に開始した。88年8月には保守党政府との交渉により、日系人への補償が認められ、長年の課題がようやく解決した。同年9月、マルローニー首相が連邦下院において補償問題について正式表明を行い、個人補償(1人あたり一律2万1000カナダドル)と日系コミュニティーへの基金(1200万カナダドル)の支払いが決定した。