2005年5月末~6月初め、欧州憲法条約は、フランスとオランダの国民投票で相次いで批准を否決された。欧州憲法条約は、その時点でEU(欧州連合)25カ国中9カ国が批准を終えていたが、2カ国の市民による国民投票で、立ち往生することとなった。また05~06年の総選挙の政権交代により、かなりのEU加盟国政府が、憲法条約批准に否定的になった。ただし全体として憲法条約に対する拒否や延期が、EU統合の促進にブレーキをかけると考える政府は少なく、チェコのクラウス大統領のように、憲法条約発効の方がヨーロッパの融和に悪影響を及ぼすという考え方もあった。
中・東欧のナショナリスト派の間にも憲法条約への批判が根強くあった。これは、西欧市民のEU拡大への危惧(移民、農業問題)とは異なり、憲法条約の理念である「強く統合されたEU」「効率的・集権的なEU」、議長輪番制の廃止や二重多数決の導入が、結果的に中・東欧の多様性や独自性・発言権を制約しないか、危惧を抱いたからである。また西側市民による東からの移民や安い農産物への警戒も、中・東欧に不利と見なされた。欧州憲法条約は、EU益と各国の国益、エリートと市民益の利害が相互に対立した典型的な象徴であった。最終的に、ドイツ議長国の指導下で、07年6月には、「憲法」という名称をはずし「改革条約 Reform Treaty」として提案された。憲法条約に懐疑的であったポーランドやチェコも「改革条約」を受け入れたため、憲法条約のエッセンスを盛り込んだ条約は、議論の上、07年10月の欧州理事会にて承認され、12月、改革条約はリスボン条約として調印された。しかしそれもつかの間、08年6月には、唯一国民投票が実施されたアイルランドにおいて、再び「改革条約」が否決された。人口380万の有権者数の過半数が、拒否を示したために、人口5億のEU機構がストップしてしまったのである。これにより、司法・憲法レベルでも、統合には根強い警戒と反発があることが明らかとなった。