2004年5月のEU(欧州連合)拡大の1カ月半後に行われた欧州議会選挙では、史上最低の投票率となり、ヨーロッパ平均で45%、新加盟国平均では28%だった。中・東欧では政治家やエリートの統合への関心の高さに対し、一般の人々の無関心をうかがわせる。この間のEU基準達成の作業が数年間に及び一般市民に負担を強いてきたこと、他方で富の偏在や汚職などへの強い政治不信が、投票率の低さの原因とされる。その結果、西欧諸国と同様、新加盟国でも、野党が欧州議員の多数を占めることとなり、それは次の各国議会総選挙での保守派や急進派の復活につながった。
欧州憲法条約についても、中・東欧の反発が目立った。半年ごとの議長国の輪番制の廃止や、これまで加盟国に1人ずつであった欧州委員15人の数が25カ国になっても据え置かれる、二重多数決の導入により大国の発言権が増す、などの改正点につき、ポーランド、スペインをはじめとして、北欧や中・東欧の多くの国が修正を求め、03年12月の採択は見送られた。04年6月の欧州理事会の憲法条約修正案では、欧州憲法条約は、欧州委員は27カ国になったあと18人に、二重多数決は人口の65%、加盟国の55%以上の支持を得て可決など、議長国アイルランドのアハーン首相(当時)の修正ととりまとめを受け、双方の妥協のすえ承認された。25カ国から27カ国への拡大ヨーロッパの意見調整の困難さを象徴する幕開けでもあった。しかし憲法条約は、フランス・オランダ両国の国民投票での批准拒否を受けて無期限に延期され、その後07年6月の欧州理事会で、憲法条約の名称はなくなり、「改革条約(リスボン条約)」として導入されることとなった。欧州委員は14年10月までは現状の体制を継続する。