2005年、第二次世界大戦終結60周年を迎え、欧州では戦後60年の催しが行われた。1930年代ナチス・ドイツに蹂躙(じゅうりん)され、加えてその後40年余りソ連の支配に苦しんだ中・東欧諸国では、「空白の歴史」をどのように書き替え、「歴史的記憶」をどのように記述すべきか、議論が重ねられた。2005年1月にはポーランドのアウシュビッツ(現オシフィエンチム)で解放60周年、5月9日にはモスクワで対独戦勝60周年が催され、中・東欧の多くの国が参加した。他方でポーランド人将校に対するソ連軍の集団虐殺である「カチンの森事件」への評価については、ジェノサイド(大量虐殺)かどうかについてポーランドとロシア側の見解は分かれた。ドイツとの「歴史の見直し」についても、その検討は困難を極めた。戦後処理をめぐって、ポーランド、チェコから強制移住させられたドイツ人が中・東欧政府を相手取って補償を要求したことは、中・東欧諸国の反発を呼んだ。またアウシュビッツを始め、ナチス・ドイツの犯罪に対して東から改めて問い直されることとなった。
東西双方の大国と軍隊によって歴史的に各地で数百万人に及ぶ死者と大量の移民・難民を出した中・東欧が、ドイツからの戦後補償要求をいかに受けとめ、またソ連の東欧支配のなごりである各国のロシア人マイノリティーをどう処遇し「歴史的記憶」を清算し「歴史の空白」を埋めていくのか、課題は残されている。ドイツ・ポーランド・ウクライナの歴史教科書作りに参画したポーランド側の報告では、合意ができず、幾度となく席を立って中断することが繰り返されたこと、最終的に歴史を共同で書くことはできず、それぞれの歴史を併記するしかないことが明らかになったこと、ウクライナに対してはポーランドも同様の侵略を行ったこと、などが生々しく語られている。