冷戦期、「東欧」という語は、東西に分断されたヨーロッパの東側・社会主義体制を受け入れたヨーロッパを指す政治的な用語として使用された。これに異議を唱えて、1980年代に、主にチェコやハンガリーの文学者、文化関係者によって「ヤルタを越える『中欧』」という言葉が使われ、これが文化的なうねりとなって、鉄のカーテンを崩す原動力となったとされる。
「中欧」という語は、歴史的用語としては、19世紀末にドイツを中心とする「小ドイツ主義」と、ハプスブルク帝国の影響下にある多民族地域全体を指す「大ドイツ主義」の対立の中で、後者を象徴する文化的理念として使われた。しかし第一次世界大戦後にはナウマンや、ナチス・ドイツも、「ドイツ帝国」の枠組みの中でこの呼称「Mittel Europa 独」を使ったため、それと区別するため、80年代の文化的知識人たちは、「Central Europe」という英語表記をあえて用いたとされる。体制転換後、90年代の「中欧」概念は、その結果、多民族国家ハプスブルク帝国の歴史的・文化的記憶と結びつき、円熟した文化・芸術(音楽、建築、美術、思想・哲学)と多様性を基礎とした、多様で統合された文化的共同体を象徴するものとなった。そのため90年代前半に形成された諸機構には、中欧イニシアチブ、中欧自由貿易協定、中欧経済圏など「中欧」の名称が冠されることとなった。これはまた、経済的・文化的に高い水準とヨーロッパ性を保持する地域として、バルカンとは一線を画する用語としても用いられ、その言葉の中に差別性をも内包することとなった。90年代後半には、EUによって、中・東欧(Central and Eastern Europe)という用語がより一般的に使用されるようになった。