東欧の体制転換をポーランドとともにリードしてきたハンガリーであるが、体制転換後は選挙が行われるたびに政権党が変化してきた。1990年からは民主フォーラムの連合政権、94年には社会党が、社会主義ノスタルジーを反映する形で政権を回復したが、ボクロシュ蔵相が出した、ボクロシュ・パッケージと呼ばれる、社会保障を削減し民営化を促進する財政改革案が民衆の不満を受け政権を退いた。98年の総選挙では、フィデス(FIDESZ 青年民主連合)の連合政権が政権に就いた。このころより社会党とフィデスの2大政党制が確立する。2002年の選挙では、フィデスの民族主義的、反ユダヤ主義的政策が欧米の反発を買う中、社会党の連合政権が樹立したが、国論が二分され、不安定な状況が続いた。対イラク戦争では、アメリカを支持する声明を出しつつドイツ・フランスとも友好関係を保ったが、国民の間では、撤兵要請と政府批判が高まった。その後メジェシ社会党連合政権は財界の汚職、財政不振、リーダーシップの弱さなどから退陣し、04年8月以降、政権は若手のジュルチャーニ内閣に移った。06年4~5月の選挙では、社会党が初の2期目政権を勝ち取ったが、増税政策などによって、秋の地方選挙ではフィデスなどに敗北した。
他方、06年9~10月、「1956年革命50周年」と重ねる形で「暴動」が勃発し、社会党政権の退陣を要求した。それ自体は、フィデスや右翼のプロパガンダであったが、EU(欧州連合)加盟が必ずしも生活の向上につながらない市民の不満が、これらの行動を後押しすることになり、市民政策の見直しが求められている。