チェコでは、ポーランドやハンガリーに比べて、より慎重な体制変革が行われ、その結果、変容は緩やかであったが、1990年代後半以降、外国投資や外国企業受け入れの活発化が始まった。長年首相を務め、その後大統領となったクラウスは、EU(欧州連合)がチェコの国政に介入することには懐疑的で、2003年に大統領となって以降も、EU政策を積極的に受け入れる社会党政権とは異なり、EU批判を繰り返して物議をかもした。またクラウスは欧州憲法条約を批判し、憲法条約とチェコ憲法との差異を盾に、批准の延期を主張した。欧州憲法条約がフランス・オランダ両国で拒否されて以降、憲法条約に関するチェコでの国民投票は、06年末から07年初めに延期された。
スロバキアでは、1993年チェコからの分離後も、91年に首相となった民族主義的傾向のメチアルを指導者とする民主スロバキア運動(HZDS)が一時期を除いて政権を握り続けた。民主派が政権に就いたのは98年10月になってからであり、その後もメチアルの民主スロバキア運動は第1党を維持し続け、政権党は周辺国に比べて、弱体な連合政権であった。2004年の欧州議会選挙では上位を占めたものの、06年の総選挙で、スロバキア民主キリスト教同盟は敗北し、代わって、左派スメル(道標)とHZDSなどの民族派の連合政権となった。経済的には、ドイツやオーストリアの投資を呼び込んで、安定的に成長している。