コソボ・メトヒヤは、12世紀末にはセルビア王国の首都が置かれた地でもあり、セルビア正教会の中心地であった。他方、アルバニア人にとっても民族自決の地であり、歴史的にはどちらの民族にとっても重要地域であったといえる。200万人のコソボの人口中9割をアルバニア人が占め、セルビア人はこの地では少数民族でありながら、セルビアの一部として支配的地位を占めていたこと、チトーの時代に1974年憲法で自治権を認められたものの90年に自治権が剥奪(はくだつ)されたこと、旧ユーゴスラビアで最も貧しい地域の一つであることなどから、冷戦終焉(しゅうえん)後、アルバニア人の不満が高まり、90年には自治を求めて「コソボ共和国」の独立が宣言されたが、セルビア政府はこれに弾圧で対応した。
コソボ紛争国際化のきっかけは、98年2月に、アルバニア系のKLA(アルバニア解放軍)の独立要求とテロの行使に、セルビア警察部隊や治安部隊が武力で応酬し、内戦となったことである。国連安全保障理事会(安保理)は停戦を求めたが、内戦の終結には至らなかったため、99年3月、NATO(北大西洋条約機構)はコソボとセルビアに大規模な空爆を開始した。同年6月には空爆は終息したが、この過程で100万人近いアルバニア人難民、セルビア人難民が周辺国に流出し、欧州全体に大きな打撃を与えた。またNATOの空爆は、中国大使館や病院、鉄道を含む多くの誤爆による市民への犠牲を引き起こした。さらに劣化ウラン弾がコソボ空爆で使われ、イタリア兵などが被曝したことがヨーロッパ市民の非難を高めた。その後国連は、国際安全保障部隊(KFOR)と国連コソボ暫定統治機構(UNMIK)を置き、治安維持に努めたが、さらに20万人近いセルビア人が、襲撃を恐れて難民となった。