西岸とガザのパレスチナ人住民によるイスラエルに対する反占領運動。イスラエルとパレスチナの関係を構造的に変化させた運動。第1次(1987年12月から93年ごろ)、第2次(2000年秋から05年ごろ)がある。第1次インティファーダは、1987年12月初旬、ガザの入り口で起きた交通事故を契機に発生した。当初は無統制の住民暴動だったが、88年春ごろには統一され、目標を持つ政治運動になった。メディアは、暴動・住民蜂起という言葉からインティファーダ(揺らす)というアラビア語表記をそのまま使用するようになった。イスラエル軍は、数百万人が行う反対運動を抑制できず、武器を使わず投石する若者を兵士が銃撃する事態に追い込まれた。この種の映像が世界中に流れ、イスラエルの国際的評判が低下した。イスラエル軍は、鎮圧のために多大な兵力を投入することを余儀なくされた。イスラエルの占領は、国際社会とイスラエル国内で厳しい非難に直面した。力による鎮圧ができないイスラエルは、政治的な解決を模索した。その結果、91年にスペインのマドリードで開催された中東和平国際会議に、初めてパレスチナ住民代表が参加し、93年9月には、イスラエルが公式にPLO(パレスチナ解放機構)を交渉相手として認める相互承認を行うことになった。第1次インティファーダは、パレスチナ人の政治的威信を国際的に高めた。
第2次インティファーダは、2000年9月に当時のリクード党首、アリエル・シャロンが、東エルサレムの「神殿の丘」訪問を強行したことを契機に発生した。第1次と異なり、パレスチナの武装勢力が中心の抵抗運動で、武器が使用され、加えて自爆テロが多用され、一時は準戦争状態になった。しかし、無統制の武力行動に政治的目的も戦略もなく、一般住民の参加はほとんどなく、05年ごろに下火になった。国内での自爆テロに恐怖したイスラエル人は、パレスチナ人に対する不信感を強めた。バスやレストランへの自爆テロもあり、国際社会はパレスチナへの批判を強めた。同じインティファーダという言葉が使用されるが、第1次と第2次は、まったく異なる抵抗運動である。