2005年11月に創設されたイスラエルの中道政党。イスラエルでは1970年代後半から、左派労働党と右派リクードの2大政党の時代が続いた。建国以来、単独政党が議会(120議席)の過半数を占めたことがなく、イスラエルの政権は常に連立政権だった。2大政党時代には、労働党あるいはリクードが主導して他の少数政党と連立するか、労働党とリクードが特定問題を解決するために大連立するかが連立の定型だった。しかし、2000年代になり、中東和平交渉での合意の積み上げが進み、現実的な変化が生まれてきた。その結果、従来の2大政党は、中道路線を支持する有権者の受け皿とならない状況が生まれてきた。リクード党首のシャロン首相(当時)は、05年に党内の反対を抑えて、ガザから撤退した。党内のしこりは撤退後も残り、同年11月、リクード党首のシャロンが離党し、新党カディマを創設した。カディマは、ガザに続き、西岸からの撤退も行う立場を表明した。政界の再編成が起こり、左派労働党内の右派勢力、右派リクードの左派勢力がカディマに合流した。06年1月、総選挙を前にシャロン党首が脳出血で倒れ(12年初頭時点も昏睡状態)、政界を引退した。オルメルト暫定党首が率いるカディマは、06年3月の総選挙で勝利し第1党となった。オルメルト内閣は、中東和平交渉を進めようとしたが、7月にはヒズボラがイスラエル軍兵を拉致したことから始まった第2次レバノン戦争で指導力のなさを露呈し、国民の厳しい批判にさらされた。またオルメルト首相の腐敗・不正疑惑も多数浮上して国民の支持を失った。オルメルト党首は、08年9月の党首選挙に出馬せず、リブニ外相が3代目のカディマ党首に就任した。09年2月の総選挙では、カディマが第1党になったが、右派政党が議席を伸ばしたため、第2党の右派リクードのネタニヤフが首班指名を受け、右派を中心とした連立政権が成立した。ネタニヤフ内閣は、民族的・宗教的な政策を進めたため、カディマは、右翼化する政策に反発する国民の受け皿になると期待された。しかし、11年夏、物価高に抗議する大規模デモが起きた後、世俗派有権者の支持は労働党(左派)やカディマ以外の政党に移り、世論調査では10議席前後しか獲得できない状態に低迷している。