パレスチナのムスリム同胞団から発生したイスラム系の組織。ハマス(イスラム抵抗運動 Islamic Resistance Movement)は、1987年12月の第1次インティファーダの直前に創設されたとしているが、ハマスの名前が知られるようになったのは88年の夏ごろから。ハマスは、慈善活動を行い、腐敗のない組織として住民の支持を集めた。88年秋、PLO(パレスチナ解放機構)がパレスチナ独立宣言を行い、西岸とガザに国家を建設することを宣言したが、パレスチナ全土の解放を掲げるハマスは、独立宣言を承認していない。パレスチナ暫定自治が開始された後も、ハマスは一貫してイスラエルとの合意を拒否する立場を維持した。政治部門とは別に軍事部門カッサーム軍団を持ち、90年代にパレスチナの組織としては初めて自爆テロを作戦として導入した。イスラエル軍は、第2次インティファーダの際に、政治指導部の殺害に踏み切り、精神的な指導者ヤシーン師など組織創設に関与した幹部の多くを殺害したため、有力な指導者が一掃された。イスラエルを承認せず、オスロ合意も自治政府も承認しないハマスだが、2006年のパレスチナ評議会選挙に参加することを表明し、大勝した。ハマスが選挙に参加したのは、オスロ合意など一連の政治的合意を事実上、了解した結果であると期待された。イスラエルや中東和平4者協議(アメリカ、EU〔欧州連合〕、国連、ロシアで構成)は、ハマスに(1)イスラエルの承認、(2)テロ批判、(3)イスラエルとPLO間の過去の合意の尊重、の3条件をつきつけたが、11年末時点でも、ハマスは明確な回答をしていない。国際的に孤立したハマス主導の内閣が自治政府を統治するようになると、外交力は弱まった。07年6月には、ガザでファタハとの武力衝突が発生し、ハマスがガザを掌握し、パレスチナは実質的に分裂状態になった。その後、エジプトが両者の和解を仲介したが、合意には至らなかった。11年1月にエジプトでムバラク政権が崩壊し、パレスチナでは「アラブの春」の影響を受け、3月に西岸とガザで若者らのデモがあり、ファタハとハマスに統一政権を作るよう要求した。また在外ハマスの根拠地であるシリアでも、国民の抗議デモが拡大するなど、ハマスをめぐる政治環境は大きく変化した。こうした中、11年5月4日、ファタハとハマスは、カイロで和解文書に署名し、式典にはアッバス大統領、在外ハマス指導者メシャルが参加した。両者は、12年半ばに評議会選挙などを行う予定。
一方、シリアでは国民と政府の衝突がさらに拡大したことから、在外ハマス幹部らは、11年末から根拠地を別の国に移転する動きを見せている。イランは、ハマスにシリア政府を支持するよう求めたが、ハマスが拒否したため財政支援を停止したとも報道されている。