2011年3月からシリアで拡大した民主化を求める抗議デモ。シリアのバッシャール・アサド大統領は、父親から独裁体制を継承した。父親のアサド前大統領は、1980年代に中部の都市ハマで反政府運動が起きた際、通説で約2万人の住民を殺害して鎮圧した。国民には、その記憶があるため、シリアでは簡単に民主化を求める運動は起きないと考えられていた。しかし、そのシリアで3月下旬から南部や中部の地方都市で抗議デモが拡大した。シリア政府は、厳しい情報統制を行い、外国メディアの入国を禁止した。また親衛隊を投入して、抗議行動の拡大した地方都市を順番に鎮圧した。衝突の現場で撮影された映像が数多くインターネットで流されたが、主要メディアが入国できず、衝突の実態がわからない状況が続いている。シリア政府は、テロリスト鎮圧のための作戦だと主張している。衝突の実態がわからず、かつ国際社会の介入を嫌ったロシアと中国が国連安全保障理事会(安保理)でシリア非難決議採択で拒否権を行使(11年10月)したため、国際社会は状況を傍観することになった。11年秋ころから、ようやくアラブ連盟がシリア情勢に介入を強め、12月末、同連盟の監視団を送り込んだ。しかし、衝突は一段と激化したため、アラブ連盟は12年1月22日、アサド大統領の退陣を求める仲介案を採決した。シリアが同案を拒否すると、アラブ連盟は、同案を安保理に持ち込み、採決を求めた。中国とロシアが安保理決議に反対し、2月5日、再び拒否権を行使した。12年2月初旬時点で、前年3月からの死者数は5000人を超えている。