1999年のハッサン2世死後、国王を継いだモハメド6世は中東和平において伝統的親米路線を継承しているが、2004年4月には、前国王時代の人権侵害を調査するための公平と和解委員会を設置するなど、体制のイメージアップに努力している。モロッコは、イスラム指導者の体制への巧みな取り込みと秘密警察により、イスラム過激派によるテロ事件を免れてきた。しかし03年5月、カサブランカ市内数カ所で自爆テロ事件が発生、40人以上が犠牲となった。また、04年3月のスペイン・マドリードでの列車爆破事件でもモロッコ人テロリストネットワークの関与が指摘された。著しい貧富の格差のなかで、若年貧困層が国際テロ組織への潜在的予備軍を提供している。こうした著しい貧富格差と若者問題を抱えたモロッコ社会は、11年初頭チュニジアとエジプト、さらにリビア、シリア、イエメンに飛び火した民主化運動「アラブの春」により大きく揺さぶられ、2月から4月にかけて各地で汚職追放、国王の権限制限、憲法改正を求めるデモが多発した。同年4月にはマラケシュで爆破テロ事件が勃発し、イスラム武力集団の犯行とされた。こうした中で、モハメド6世国王は王制の未曽有の危機に面し、改憲を約束せざるを得なくなり、同年7月に国王の権限を縮小し、首相と議会の権限の拡大と人権遵守を骨子とする民主化原則を明確にした憲法改正案を国民投票にかけ、承認された。その後の同年11月、新憲法初の選挙として実施された議会選挙では、穏健派イスラム政党とされる正義発展党が第1党になった。