南アフリカ共和国でかつて行われていた有色人種への差別隔離政策のこと。オランダ語を起源とするアフリカーンス語で「隔離」を意味する。人種による差別が一貫して打ち立てられたのは、オランダ系白人アフリカーナを地盤とする国民党政権が誕生した1948年以来。具体的には、非白人に対する参政権のはく奪、黒人に全国土の13%しか与えない土地政策、白人・カラード(混血)・黒人と分け、居住地を制限し、さらに黒人を部族別に細分化し、10のバンツースタン(ホームランド)に押し込める政策などが存在してきた。しかし、80年代にはいるとアフリカ民族会議(ANC)やパン・アフリカニスト会議、南アフリカ労働組合会議(COSATU)などの合法・非合法の反アパルトヘイト運動が活発化する一方、国際社会の圧力は一層強まり、86年には、アメリカは対南アフリカ包括的制裁法を制定。88年には、国連総会で日本が南ア最大の貿易相手国として名指しで非難された。冷戦が終結する89年、国民党のデクラークが、結果的には最後の白人大統領として就任。差別関連法を急速に撤廃し、90年には27年間投獄されていたANCのリーダーの一人ネルソン・マンデラを釈放した。94年4月全人種が参加する制憲議会選挙が実施され、マンデラが初代大統領に選出され、国民党なども参加する国民統合政府が発足した。平和裏の体制移行によって生まれた新生南アフリカは、多人種共生社会として虹の国などとも呼ばれた。アパルトヘイト後の最大の課題は、旧体制の後遺症をいかに克服するかで、貧富格差是正策と並んで、人類に対する罪とされたアパルトヘイト下の人権侵害の解明のために真実和解委員会が設置された。