監督庁(文部科学大臣)の検定を経た教科書の使用を義務付けている教科書検定制度は、1886年に始まり、1902年の教科書疑獄事件(検定をめぐる贈収賄事件)を契機に、翌03年に国定教科書制度に変わるまで続いた。戦後は、学校教育法により小・中・高校の教科書については検定制が採用されることになったが、1965年には教科書裁判が起こり、82年には社会科教科書の検定で「侵略」を「進出」と書き直させたとの新聞報道を契機にアジア諸国から抗議され、「密室検定」や検定の偏りに対する世論の批判が高まった。これに対し旧文部省は、検定結果の一部公開(83年)、検定手続きの簡略化(89年)、出版社への検定意見一覧表の提示(90年)、検定意見書等の通知・閲覧(2000年)等の改善を図ってきた。01年には新しい歴史教科書をつくる会(後にメンバーの一部は、改正教育基本法に基づく教科書改善を進める有識者の会〈教科書改善の会〉へと移行)の扶桑社版歴史教科書について批判が起こり、韓国・中国からの抗議もあり、外交問題にまで発展した。また、それ以来、採択段階でも同会系列による歴史・公民の教科書をめぐって各地の教育委員会で緊張した議論がたびたび起こっているが、同社の教科書の採択地区は少数にとどまっている。教科書採択の権限は所管の教育委員会(県立の高校や特別支援学校は都道府県、公立小・中は市区町村)にあるが、都道府県教委は市区町村教委の意見を聞き採択地区(市区・郡単位で11年現在582地区)を設定し、市区町村教委に対し必要な指導・助言・援助を行い、各教委は、校長・教員や保護者代表を含む教科用図書選定審議会(都道府県)の答申(選定資料)や採択地区協議会・選定委員会(市区町村)の調査研究資料を踏まえて行うこととなっている。01年以降の採択で紛糾した地区の多くは、教委レベルでこの選定資料や調査研究資料とは異なる採択を行う動きが見られたケースである。