2002年に「新しい歴史教科書をつくる会」(「つくる会」)作成の歴史・公民教科書(扶桑社刊)が検定に合格し発行されて以来、同教科書採択の是非をめぐる「教科書採択問題」が注目されるようになったが、沖縄県八重山地区(石垣市、竹富町、与那国町)で12年4月から中学校で使う公民教科書の採択をめぐる「八重山教科書採択問題」が、11年8月、表面化した。それは、石垣市と与那国町の教育委員会が「つくる会」系の「教科書改善の会」のメンバーが中心となって作成した公民教科書(育鵬社刊)の採択を決めたのに対し、竹富町教育委員会が、育鵬社版は特に第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の1945年に沖縄で日本軍が関与して発生したとされる集団自決(自殺)の扱いが不適切だとして育鵬社版の採用に反対して紛糾した問題である。決着を図るために3市町の教育委員13人全員による臨時総会が2011年9月に開催され、多数決により、育鵬社版ではなく、東京書籍版で一本化することを決めたが(石垣市と与那国町の教育長は棄権・退席)、結局、3市町の合意は成立せず、12年3月10日現在、石垣市と与那国町では育鵬社版、竹富町では東京書籍版の教科書が3月末に各学校に配布されることになっている。文部科学省は「教科用図書八重山採択地区協議会」が育鵬社版の採択を決めていたことを重視し、竹富町教育委員会が使用する教科書を有償としているため、同町では町民有志の会の寄付で賄い、そのうえで文部科学省に無償供与を求めるとしている。この問題は少なくとも次の4点で重大な問題を提起している。第一は、義務教育段階の教科書無償制と公立学校の教科書採択制度にかかわる法令上の問題である。義務教育段階の教科書については、教科書無償措置法(「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」)により、無償給付となっているが(1条、3条)、どの教科書を採択するかについては、都道府県教育委員会の設定する[「教科用図書採択地区」(同法12条1項)ごとに同一の教科書を採択する]ものと規定し(同法13条1項、4項)、その[採択事務について都道府県教育委員会が適切な指導・助言・援助を行う]ものと規定している(同法10条)。他方、地方教育行政法(23条6号)および「教科書の発行に関する臨時措置法」(7条)は、[教科書採択の権限を各市町村教育委員会に与えている]。八重山教科書採択問題は、この[ ]で囲んだ規定とその矛盾が表面化した問題である。第二は、公立学校で使用する教科書を決定する際の手続きと教育行政の政治的中立性にかかわる問題である。法令上は、教科用図書選定審議会の意見をきいて行う都道府県教育委員会の指導・助言・援助の下(教科書無償措置法10条、11条)、各市町村教育委員会が決める(採択地区が複数の市町村を含む場合は当該の市町村教育委員会が協議して決める)ことになっているが(同法13条)、実際に教科書を使って授業・指導を行う現場教師の意見・意向を考慮・尊重するのが好ましいことから、その決定過程で参考資料となる選定資料の作成や各学校の報告の作成に現場教師も参加するのが慣行となっている。しかし、「つくる会」の教科書が検定で合格し発行されるようになってからは、幾つかの自治体で、政治的介入が強まり、その法令上の規定や手続き上の慣行の逸脱や無視が目立つようになったが、上記の八重山地区の場合もそうした問題があった。第三は、特に歴史教科書・公民教科書の記述内容と検定の妥当性・適切性にかかわる問題で、1960年代に始まった家永教科書裁判でも沖縄戦「集団自決」や南京虐殺の記述の有無・適否が一つの争点になったが、「つくる会」の教科書が発行されてからは、「従軍慰安婦」問題も含めて、再度、問題化することになった。そこには、歴史的事実の記述内容とその事実認定根拠の妥当性や解釈・考え方の適否の問題が含まれている。第四は、歴史教育・公民教育の目的をめぐる問題である。日本の学校教育と教科書では、知識重視の傾向が強く、しかも、歴史・公民については唯一の「正しい」解釈・記述を内容としなければならないという考え方や方針が強い。しかし、この点については、「自ら学び、自ら考える力」の育成が重要だとする教育方針が採用・明示されていることに鑑みて再考すべきだとの意見も少なくない。ちなみに、イギリスでは、マーガレット・サッチャー政権下で進められた1988年の教育改革で日本の学習指導要領に当たる「ナショナル・カリキュラム」(全国共通の教育課程)が制定されたが、そこでは歴史教育の目的は「歴史を解釈する力」の育成にあるとしている。