第二次世界大戦後に出遅れた日本の国内航空産業の早期成長を促すために、当時運航していた主な3社である日本航空、全日本空輸(全日空)、東亜国内航空(後の日本エアシステム)の事業領域のすみ分けを規定した指針の通称。1970年(昭和45)に閣議了解され、72年(昭和47)に運輸大臣通達が出されたことから「45/47体制」とも呼ばれ、85年に撤廃されるまでの15年間、日本の航空業界に大きな影響を与えた。これによって、日本航空は国際線と国内幹線(新千歳、羽田、伊丹、福岡、那覇の五つの空港間を結ぶ路線)、全日空は国内幹線、一部国内ローカル線と近距離国際線チャーター、東亜国内航空は国内ローカル線と一部国内幹線を担当することになった。この体制は、航空会社間の競争を抑えて収益をあげさせる代わりに、その収益を成長のために投資させ、国際競争力をつけさせるとともに、内部補助体制によって採算の取れない公共路線を維持することも可能にした。こうした体制がなくなったことは、競争促進を通じたサービスの向上など、プラスの効果をもたらしたことは確かだが、羽田空港、成田空港の発着枠の不足によって、十分な成果が現れているとはいえず、旧体制のゆがみが残っている面がある。また、公共路線の維持にも支障が生じるようになった。