1996年3月31日に公布され、翌年4月1日に施行された「らい予防法の廃止に関する法律」によって「らい予防法」は廃止された。1907年に制定された「癩予防に関する件」で開始された隔離政策が90年近く続いたことになる。患者の人権を無視した強制入所、外出制限、断種・中絶手術の強制など、患者、家族、親族などへの差別や、家族・親類間の人間関係の破壊の状況は想像を絶するものであった。世界的には、すでに56年の「らい患者の保護と復帰に関するローマ会議」、88年の「WHO・らい対策指針」が隔離政策の廃止と早期発見・早期治療の方向を示していたが、日本においてもようやく実現した。しかし、国による人権侵害への謝罪と国家賠償を求めて、熊本(98年)、東京、岡山(99年)の各地方裁判所で推計547人の原告により訴訟が起こされ、2001年5月、熊本地裁において原告の全面勝訴の判決がなされた。国は当初控訴を検討していたが、4月に発足した小泉内閣に対して控訴断念の国民的運動が広がり、原告の高齢化、ハンセン病患者に対する隔離政策への反省もあり、高い国民的支持を持つ小泉首相(当時)は高度な政治判断として国の控訴を断念、原告へ謝罪した。その後、ハンセン病損失補償法が成立したが、非入所者や元患者の遺族との裁判は続き、02年1月30日に和解が成立し「全面解決」となった。国が約束した「検証会議」が02年10月に設置され、04年4月に中間報告、05年3月に最終報告書が提出された。しかし、03年11月に熊本で起きたハンセン病元患者へのホテル宿泊拒否事件や、05年1月に各地のハンセン病療養所で胎児や新生児の遺体が「標本」として多数(6施設で114体)発見されたことなどもあって、ハンセン病問題は根深く続いている。