東日本大震災と福島第一原発の事故は、日本人にとって「3.11以降」と呼ぶような時代的な画期となった。3.11以降に、これまでと同じような文学作品の創作は可能なのか。多くの作家が、それまでに書いていた作品を中絶し、書くことの意味を問い直さなければならなかったと述懐している。川上弘美は、処女作といえる「神様」(1994年)を「神様2011」として改稿した。文章も、場面の展開もほとんど変わっていない。ただ、「あのこと」が起きたという記憶を除いては。防護服を着た人や、放射能の話題が人の口の端に上る。ただ、それだけの違いで、世界はまったく違ったもの、違った時代となってしまった。福島県浜通りの立ち入り禁止区域に車で行こうとする古川日出男の「馬たちよ、それでも光は無垢で」は、やはり書いていた小説を中断し、福島県中通り出身の作家として、故郷へと向かわなければならなかった作家の切実な心象が、3.11後の福島の光景とともに描かれている。高橋源一郎の「恋する原発」は、不自由な言説空間のなかで、あえて不謹慎なAV(アダルト・ビデオ)の創作という現場を描きながら、彼一流の「震災文学論」を展開している。短詩型では、俳人長谷川櫂が、あえて短歌で挑んだ「震災歌集」がもっとも早く刊行された。また、福島市で被災した和合亮一がツイッターに投げ込んだ「詩の礫(つぶて)」などは、うまく、美しくうたうことよりも、「今」の現実をうたい、被災者としての作者と読者を結びつける試みを行っている。