舞楽(ぶがく)とともに伝来した大衆的芸能である散楽(さんがく)は、各地に定着し様々に発展して猿楽(さるがく)と呼ばれた。中世においては、豊作祈願の神事芸能に由来する田楽(でんがく)と並んで座を結成し、寺社の庇護を受け、勧進におけるスペクタクルの一端を担い、劇的な表現も取り入れるようになった。特に大和・近江の座は、南北朝の動乱期を経て、次第に武士階級とのかかわりを深めた。大和猿楽結崎座の観阿弥・世阿弥父子は、足利義満の絶大な庇護のもと、源氏物語、平家物語、平安の和歌、仏教説話などに題材をとった深い劇的内容を持つ作品と上演様式を確立した。本来、才能や技芸などの意味であった猿楽の「能」は、武士階級に愛好される新しい演劇ジャンルとなった。以後、変転を経ながらも多くの作品を生み出し、江戸時代になると武家の式楽として幕府や大名に保護され、今日に伝わる作品と形式がほぼ完成した。多くは面をつけて人間の男女から神、鬼、亡霊までを演じるシテ(主役)と、それを受ける生身の人間であるワキが基本となり、一定の形式を持つ舞台で簡単な道具のみを用いた極めてシンプルな演劇であり、抽象性が高い。シテ方が担当する地謡(じうたい コーラス)、笛・鼓・大鼓(演目により太鼓が加わる)の囃子(はやし)、間狂言(あいきょうげん ナレーション)は完全な分業制であり、今日ではその総体を能楽と呼んでいる。