ヤセル・アラファト。Yasser Arafat。本名、Muhammad Abd al-Rahman ar-Rauf al-Qudwah al-Husayni。パレスチナ解放機構(PLO)議長、パレスチナ自治政府(PA)議長。
11月11日、パリ郊外のペルシー軍病院に入院していたPLO議長でPA議長のヤセル・アラファト氏が死去。75歳。
1929年、エジプト・カイロ生まれ(本人は旧パレスチナ・エルサレム生まれと主張)。ヤセル・アラファトは通り名で、アブー・アンマルというゲリラ名も名乗っていた。現カイロ大学で工学を学び、59年、のちにPLO主流派となるゲリラ組織ファタハの創設に参加。64年にPLO創設、イスラエルに対する武装闘争を開始し、69年にPLO議長となった。82年イスラエルのレバノン侵攻で根拠地を失い、一度は政治の表舞台から姿を消した。しかし、冷戦後はイスラエルとの和平に動き、穏健派の指導者として93年に中東和平の枠組みを決めたオスロ合意(パレスチナ暫定自治協定)に調印。94年イスラエルのラビン首相・ペレス外相(当時)とともにノーベル平和賞を受賞した。96年にはオスロ合意に基づくパレスチナ初の民主選挙で圧勝、自治政府の初代議長に就任。しかし、財政と治安権限を握るワンマン体制でイスラエルとの対立が再燃。02年イスラエルのシャロン首相は、議長を和平の障害とみなしてヨルダン川西岸地区ラマラにある議長府を包囲。死の直前まで軟禁状態に置かれた。また、02年アメリカのブッシュ政権も議長に退陣を求め、パレスチナの若い世代からも独裁ぶりや腐敗、3億ドルとも10億ドルともいわれる不明朗な資産管理などに批判が噴出。92年に結婚を公表した34歳年下のスーハ夫人とPLO指導部との対立も表面化していた。アラファト議長の死でPLO執行委員会はマハムード・アッバス前首相をPLO議長に選出。また、パレスチナ基本法(暫定憲法)により、60日以内に選出される自治政府新議長には、パレスチナ立法評議会(PLC)のラウィ・ファトゥーハ議長が暫定的に就任。パレスチナ自治政府のアハメド・クレイ首相らが政権を主導することになる。