1960年代から70年代にかけて行われた、アメリカ合衆国による有人月面探査計画。旧ソビエト連邦(ソ連)がもたらした、57年のスプートニクスショック(スプートニクス1号・2号打ち上げの成功)と61年のガガーリンショック(ガガーリン少佐が乗船したボストーク1号の有人軌道飛行の成功)は、アメリカの宇宙開発における、ソ連からの大きな後れを意味した。61年に大統領に就任したばかりのケネディは、「1960年代の終わりまでに、月面に人間を着陸させ、安全に地球に戻す」と公約したことから、アポロ計画がスタートした。アメリカの有人宇宙飛行計画は、1人乗りのマーキュリー計画(58~63年)、2人乗りのジェミニ計画(61~66年)が先行し、その最終段階としてアポロ計画に引き継がれる。アポロ1号から10号まで、月周回飛行や月面着陸のリハーサルが行われ、69年7月16日、アームストロング船長を含む3人が乗船したアポロ11号が打ち上げられた。4日後の20日に、2人を乗せた月着陸船は母船から切り離され、月面の「静かな海」の予定着陸点より南へ7.4km地点に着陸。アームストロング船長は人類史上初めて地球外天体に降り立ち、「一人の人間には小さい1歩だが、人類には大きな1歩である(That's one small step for man. One giant leap for mankind.)」というメッセージを地球に送り、21時間半の滞在の間に2時間半の月面活動を終え、24日に地球への帰還を果たした。アポロ計画は72年のアポロ17号まで続き、事故によって月面着陸を断念した13号を除いて、6回の月面探査が行われた。この間、12人が月面に降り立ち、400kgの月の石が持ち帰られた。アポロ計画は、アメリカがソ連から宇宙の覇権を取り戻すための威信を賭けた技術的な戦いだったとはいえ、それに投じられた巨費は、250億ドル(1ドル=360円換算で9兆円)にも上った。なお2008年5月、宇宙航空研究開発機構(JAXA)は、日本の月周回衛星「かぐや」が08年の2月に撮影した写真を分析し、1971年に月面着陸したアポロ15号が残した、噴射とみられる痕跡を発見したと、発表した。