「万葉集」の歌の一部が万葉仮名で書かれた木簡。奈良時代、聖武天皇が転々と遷都した都の一つ、紫香楽宮(しがらきのみや)跡とされる滋賀県甲賀市の宮前遺跡から1997年に出土した7100点の木簡から、2007年12月10日に大阪市立大学大学院の栄原永遠男教授が発見。科学的検証や専門家の検討会などを経て、市教育委員会が08年5月22日に発表した。「万葉集」収録の歌は今回が初めてだが、万葉仮名で歌の書かれた木簡はこれまでにも各地で14点見つかっており、手習いや落書きなどとされてきた。栄原教授はこれらを調べ、通常20~30cmとされる木簡の倍以上の長さが想定されることなどから、典礼や宴席で読み上げるために用いられた「歌木簡」という概念を提唱、07年12月1日の学会で発表したばかりだった。今回の発見は、栄原教授の説を裏付けるばかりか、紫香楽宮造営が742~745年で「万葉集」編纂(へんさん)の直前であることから、「万葉集」成立を解明する第一級史料と目される。また、記された万葉歌が「安積山の歌(安積香山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに[表記は広辞苑第六版より])」で、裏には「難波津の歌(難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花[同])」も記されており、紀貫之が「古今和歌集」(908年ごろ成立)の仮名序で、歌を学ぶとき最初に習うべき「歌の父母(ちちはは)」と呼んだ2首と一致。これを対とする見方が、貫之の創作ではなく、少なくとも仮名序より150年以上前から続くものだったことも判明した。